忍城は数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。戦国時代には関東七名城の一つ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された。
江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。
明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている。
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2026年4月1日~2027年3月31日
リアル謎解きゲーム×忍城・行田市郷土博物館「忍城に眠る謎」
忍城の見どころ
歴史ポイント

忍城が難攻不落を称される所以となったのが忍城の水攻め。天下統一の総仕上げとなる豊臣秀吉は、関東の巨大勢力 北条氏を征伐するために進軍。総大将の石田三成は丸墓山古墳に陣を構え忍城を包囲。
全長28kmにもなる石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まりました。ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから忍の浮き城と呼ばれました。
小田原合戦で北条方の城はことごとく落城したが、忍城だけは落城しませんでした。
遺構ポイント

かつての本丸東側にあたる行田市郷土博物館付近には、当時の土塁が残っています。
場所が若干異なる位置に御三階櫓が復元されおり、忍城のシンボルとなっています。
浮き城と称された痕跡は近くにある水城公園にあり、当時の堀の堀の一部と伝わります。
市街地化によって整備されている範囲は狭いが、忍城の戦いで石田三成が構築した「石田堤」と呼ばれる土塁が広範囲で部分的に残っています。

楼鐘

水城公園

土塁

御三階

東門

石田堤

移築城門

藩校進修館の門
忍城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 日本三大水攻めの一つで、豊臣軍の攻撃に耐えた合戦の歴史があるので歴史ポイントは最高クラス
- 市街地化によって整備範囲は狭い。移築門と御三階が復元されているので、整備ポイントは及第点
- 駅からは遠いので、駅前でレンタサイクルかバスの利用が必要
平均:63/100 ポイント
合計:380/600 ポイント
おススメ度:★★★☆☆☆
■見どころバロメーター
■埼玉県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。
続日本100名城スタンプ設置場所
・行田市郷土博物館
開館時間:9:00~16:30(最終入館16:00まで)
御城印販売
・行田市郷土博物館
・忍城バスターミナル観光案内所
・観光物産館ぶらっと♪ぎょうだ
・JR行田駅前観光案内所

忍城周辺の天気
| 別名 | 浮き城、亀城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 平城 |
| 天守構造 | 御三階櫓(1701年)非現存 層塔型3重3階(1988年 模擬または復興) |
| 築城主 | 成田氏 |
| 築城年 | 15世紀後期 |
| 主な城主 | 成田氏、松平氏ほか |
| 廃城年 | 1871年 |
| 遺構 | 土塁、堀、移築門 |
| 指定文化財 | 埼玉県指定旧跡 |
| 再建造物 | 櫓・模擬門 |
写真で見る忍城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・各地より路線バス「忍城」停留所(朝日バス )または「忍城址・郷土博物館前」停留所(行田市内循環バス)
・秩父鉄道秩父本線行田市駅下車、朝日バス吹上駅行き。または徒歩15分
・JR東日本高崎線吹上駅下車、2番のりば朝日バス前谷経由行田市各方面行き
・JR「行田駅」または秩父鉄道秩父鉄道秩父本線ソシオ流通センター駅下車、行田市内循環バス 西循環コース右回り。
■車・バイク
・東北自動車道・羽生ICから約30分
・東北自動車道・加須ICから約30分
■駐車場
・無料専用駐車場有り
忍城について
室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている。数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。戦国時代には関東七名城の一つとされ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦豊臣に際し、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された。
江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている。
2017年(平成29年)4月28日に文化庁が認定する日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産(文化財)のひとつに加えられた。
忍城の歴史
戦国時代・安土桃山時代
1478年(文明10年)ごろ、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。
河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。
1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏はこれに恭順した。1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが持ちこたえている。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。
しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。
江戸時代
徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。1639年(寛永16年)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われ、往事の縄張りは1702年(元禄15年)ごろに完成したと考えられている。
1823年(文政6年)に阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入った。
忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄する。また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。
構造
湿地帯を利用した平城であった。元々沼地だったところに島が点在する地形だったが、沼を埋め立てず、独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築いた。当初は櫓を立てずに本丸は空き地とし、二の丸に屋敷を作ってそこを住まいとしていた。そのため、攻めにくく守りやすい城であったとされる。
当時の沼の名残は、水城公園に見て取れる。
忍城 周辺スポット
石田三成本陣跡

1590年に忍城を水攻めする際に石田三成が布陣した本陣跡。国内最大級の円墳である丸墓山古墳を利用した陣所です。
忍城から東南東へ約2kmに位置し、円墳は直径105m、高さ18.9mあり、忍城を一望できるロケーションです。
頂部に登れば忍城も見ることができるので、当時の大決戦時にシンクロすることができます。
石田堤歴史の広場

天正18年6月、忍城水攻めの際に石田三成によって築かれたことから、石田堤と呼ばれています。自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に1~2m程盛土をしたものです。
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