前橋城
前橋城(まえばしじょう)は、群馬県前橋市(上野国群馬郡)にあった日本の城(平山城)。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。
車橋門の跡が前橋市の史跡に指定され、酒井氏に伝わる城絵図が市指定重要文化財に指定されている。
前橋城について
酒井重忠が家康より授かりし地 前橋
かつて家康をして「関東の華」と言わしめた前橋城。その歴史は15世紀末までさかのぼります。
前橋城の起源は諸説ありますが、厩橋城(のちの前橋城)の前身とされる石倉城は、長野氏の支城であり、天文3年の利根川氾濫によって流れてしまった石倉城の、無事であった三ノ丸を基にして長野賢忠(固山宗賢)によって再築された城が、厩橋城と呼ばれるようになったと言われています。(笠間明玄や太田道灌による築城という説も残っているそうです)
厩橋城は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東進出の拠点となり、その後北条高広や、滝川一益、北条氏直など、様々な人物が城主となります。
江戸時代に入り、初代厩橋藩主であった平岩親吉が甲府藩へ移されると、徳川家の重心であった酒井重忠が入城することとなりました。この際、家康は重忠に、「なんじに関東の華をとらせる。」といったと伝えられています。
前橋城周辺の天気
別名 | 厩橋城 |
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城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 3重3階(非現存) |
築城主 | 長野方業、松平直克 |
築城年 | 15世紀末、文久3年(1863年) |
主な改修者 | 酒井重忠 |
主な城主 | 上野長野氏、上杉氏、平岩氏 酒井氏、越前松平氏 |
廃城年 | 1871年 |
遺構 | 石垣、土塁、堀 |
指定文化財 | 前橋市指定史跡「前橋城車橋門跡」 前橋市指定重要文化財「前橋藩酒井家前橋城絵図 附 上野国絵図ほか関係資料」 |
前橋城の歴史【江戸時代】
関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)2月、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。
重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。
下馬将軍として知られる酒井忠清(さかい ただきよ)から忠挙(ただたか)にいたる、17世紀中頃から18世紀初頭、厩橋の地は「前橋」と名を改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになります。
そんな華々しい城の歴史とは裏腹に、前橋城や周辺一帯は暴れ川として知られる利根川によって、度重なる氾濫と洪水の浸食を受け続けていました。17世紀後半になると利根川の洪水により城の崩壊が進み、18世紀初頭には、本丸の移転を余儀なくされてしまいます。
18世紀には酒井氏が転封となり、親藩である松平朝矩(まつだいら とものり)が引き継ぎました。度重なる利根川による被害に、前橋城は修復を重ねますが、松平家の川越への転封を契機に、明和6年(1769年)に三重櫓の天守閣、大手門などが取り壊され、廃城となってしまいました。
再築前橋城の規模は157159坪(約52万平方メートル)におよぶ広大なものだった。
廃城からの再築
横浜開港に伴う生糸貿易により活況を呈した前橋に、前橋城再築の案が持ち上がります。これを受けて、11代直克は幕府に対して3度にわたり「前橋城再築内願書」を提出。
当時江戸幕府は既存の城の増改築すらほとんど認められない中、万が一江戸が外国によって攻撃された時の避難路として利根川を利用でき、申し出ている前橋城を、江戸城に変わる要塞とする案が幕府内で浮上し、幕府がこれを許可したことで、廃城から100年の時を超えて、1863年に築城が許可され前橋城の再築が始まりました。
再築された前橋城は当時の日本の技術の粋を集めた要塞となり、坪数は旧前橋城とほぼ同等ながらも非常に近代的な造りで、建物が塀で囲まれ、その外側には土手やお堀がはりめぐらされ、土塁の要所要所に砲台が設置された強靭な城となりました。
ところが城の完成からわずか4年後、明治維新による廃藩置県で、前橋城は真っ先に取り壊しが決定し、莫大な費用をかけて作られた前橋城は、再び姿を消したのでした。
遺構
開発が進み遺構の保存状態は良くないが、石垣(車橋門跡等)、土塁(群馬県庁北側、前橋公園内等)、堀の一部が良く残る。建造物としては、市内総社町に城門が移築され現存する。また、松平直方の邸宅が、市内川原町の大興寺内に移築現存する。
臨江閣、るなぱあくが位置するのは東西300メートル、幅70メートルにも及ぶ前橋城の大空堀(自然の地形で、人工の壕ではない)跡である。
また、大手町二丁目の「前橋城車橋門跡」が1964年(昭和39年)12月22日付で市の史跡に指定されている。