淀城@京都府

2025年10月24日

関西遠征の2城目は京都市伏見区にある淀城に初訪城です。

朝一は長岡京にある勝龍寺城を見て周り、バスで約10分程度で淀城のある京阪本線 淀駅に到着しました。

木津川、桂川、宇治川の合流地点に徳川秀忠の命によって松平定綱が築いた城になります。

完成は1625年で、廃城となった伏見城の廃材を転用して築城されました。

淀城は駅からも近いのもポイント。

当時は水に浮かんでいるように、各曲輪を幾つもの水堀で囲んでいました。

現在は近隣は住宅街となっており、城郭の殆どは失われています。

現在淀城跡は淀城跡公園として整備。遊具や広場がありワタクシが訪城した際も、保育園児のお散歩とお遊戯スポットになっており、ほのぼのとしていました。

この場所は古来から物資や軍事的にも京を守る重要な拠点でした。

中央部の本丸の一部のみが現在は残っています。

絵図で見ると手前側の石垣は、幾つもの屏風折れになっており防御力が高め。

早速現れるのが、天守台石垣!

淀城の最大の遺構であり、一番の魅力と言えます。

公園内からは近づくことができないので、コインパーキングから眺めます。

本丸に入り、天守台へと向かいます。

天守台は本丸から一段上がっています。

本丸内部から見た天守台。

天守台の周りには細い曲輪が設けられています。

一つ一つが大きめの石材が使われており、隅は算木積み。全体的に打込接の積み方で、加工した石材が使われています。

当時の先進的な技術で積まれています。

天守台の隅と水堀。

本丸から少し跳ね出して天守台が造られています。

天守台付近から見た水堀。

当時は淀川より水を引き込んで、幾つもの水堀で防衛ラインを築いていました。

淀城の天守台は閉鎖されており、中に入ることはできません。

穴蔵式となっており、石垣を切り欠いて入口となっています。

天守を支える石垣としては意味合いが同じでも、城によって天守入口の形状は違うので個人的には注目しています。

天守跡の入り口。

天守台の状態は良好なように見えました。

なぜ、立ち入り禁止なのかは不明。

淀城は当時は三重櫓が4基、二重櫓が5基上がっており、櫓門も4棟とかなり立派な城であったと想像できます。

天守台がかなり大きいのが分かります。

これだけ立派な天守台になったのは、廃城になった伏見城から天守も移築する計画でした。

しかし、急遽伏見城天守は二条城へと移築され、二条城の天守が淀城へと移築されました。

五重の天守が中央に建てられ、四隅には櫓、櫓と櫓は土塀で繋いでいました。

数ある日本の城の中で、変形連立天守と呼ばれる天守になったのは理由があります。

伏見城の天守を移築する計画で天守台を作ったことで、二条城の天守ではサイズが合わなかった為、特異な形になったとされています。

しかし、1756年に落雷によって焼失。

その後、再建されることはありませんでした。

ちなみに移築された二条城の天守は、元々は豊臣秀長が城主を務めた奈良の大和郡山城の天守を移築したとされています。

巡り巡る城の歴史も面白い。

淀城から歩いて15分くらいの場所には長円寺というお寺があります。

幕末の時、新政府軍と幕府軍で鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まります。

当時、淀藩12代藩主は幕府の家老を務める稲葉正邦が城主でした。

幕府軍は敗走して淀城に逃げましたが、門が開くことはなく拒絶されます。

淀城から近い長円寺は閻魔様が安置されているので、新政府軍も閻魔様いるお寺は攻撃できないとのことで幕府軍、会津藩、新撰組の野戦病院となりました。

隠れ新撰組の縁の地として知られているので、淀城とセットで周ることをお勧めします。

淀城の後は初めてのライトアップ大坂城を巡るために、大阪へと移動します