新府城【続日本100名城】
新府城は武田勝頼によって築かれた城で、真田昌幸が作事奉行を務めた※諸説あり。実践を想定した非常に大規模な城であった。
本来の武田氏の居城である、躑躅ヶ崎館に代わる「新しい府中」という意味で新府城と名づけられました。
武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城だったが、徳川・織田連合軍に追い詰められた勝頼は自害し武田氏は滅亡した。
結果的に新府城は甲斐武田氏の最後の城となった。
現在も土塁や空堀などの遺構が残っているが、未完成だったと伝わるので謎多き城でもある。
Contents
新府城の見どころ
■発掘調査によって復元された大手桝形と、武田築城術の代名詞とも言える三日月堀は壮大なスケール。
■乾門桝形の周辺には深い空堀や土塁、井戸跡などが残っている。
名城スタンプと御城印
※営業時間や配布場所は最新情報をご確認ください。
続日本100名城スタンプ
■韮崎市民族資料館
※城郭から距離があるため計画的に予定を組むのをお勧めします。
御城印
■韮崎市民族資料館

新府城 周辺の天気
| 別名 | 韮崎城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 武田勝頼 |
| 築城年 | 1582年(天正10年) |
| 主な改修者 | 徳川家康 |
| 主な城主 | 武田勝頼、徳川氏 |
| 廃城年 | 1590年(天正18年) |
| 遺構 | 土塁、堀 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
写真で見る新府城
レポート
地勢と構造
甲府盆地西部に位置する。八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。
石垣は使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられる。
近年発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。また、陶磁器類も出土している。
支城として白山城・能見城がある。
武田勝頼期の武田家の築城の特徴として、台地の突端部(側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造が挙げられる。
具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせる。横矢を掛け敵兵を攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を無力化できる。
同様な構造の代表的な城に遠江では諏訪原城・小山城、信濃では大島城がある。ただし、新府城の場合は現在遺構とされる城跡ではなく、能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ、上に挙げた城に比べその規模の大きさは群を抜く。
また能見城防塁は複雑に屈曲し、最大限横矢を掛けられるような構造となっており防塁が多数配置されている。
ただし諏訪原城は発掘調査から現在見られる縄張は徳川家が整備したことが判明しており、新府城の北側防塁も天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説がある。
このような大規模な構造から、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となるようである。
実際、天正壬午の乱においては、徳川家康の北条氏直の軍に対する本陣として使用されている。
有効であったかどうかは定かではなく意見の分かれるところだが、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。
使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7-8キロメートル、東西2キロメートルという周辺の自然地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城である。
新府城の築城と武田氏の滅亡
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)において、武田方は織田・徳川連合軍に大敗し、それ以降、武田勝頼は長篠敗戦後に領国支配を強化した。
築城は天正9年(1581年)から開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住、武田家の本拠地は躑躅ヶ崎館から新府城に移転した。
天正10年(1582年)2月、武田勝頼は信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田信長・徳川家康連合軍に阻まれて帰国した。織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、武田勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけて廃城にした。
この時、新府城は築城途中のまだ未完成の城であった。
その後、武田勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で小山田信茂の謀反・裏切りにあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ武田一族は滅亡した。
「天正壬午の乱」から近世の新府城
武田氏滅亡後、織田氏は甲斐・信濃諏訪郡に家臣の河尻秀隆を配置し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたという。同年6月には本能寺の変が発生し、秀隆は混乱のなかで横死する。これにより主に甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生し、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻した。
天正壬午の乱において徳川勢は新府城を本陣に、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。対して後北条氏は都留郡を制圧し、若神子城に本陣を置くと同様に周辺の城砦に布陣し、徳川勢と対峙した。
同年10月には徳川・北条同盟が成立し、後北条氏は甲斐から撤兵する。これにより甲斐は徳川氏が領し、徳川氏は甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした。
天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏が滅亡すると、豊臣政権に臣従していた家康は関東へ移封される。甲斐は羽柴秀勝・加藤氏・浅野氏が領し、豊臣系大名時代に躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町の南端にあたる一条小山に新たに甲府城が築城され、甲府城下町が形成された。
関ヶ原の戦いを経て甲斐は再び徳川氏が領し、近世を通じて甲府城は甲斐の政治的中心地となり、新府城は廃城となった。
MEMO
新府城にはパンフレットやマップなどの看板も設置されていないので、韮崎市民族資料館でパンフレットをもらうことをお勧めします。城跡と距離があるので、電車の方は特に念入りに計画するのをお勧めします。
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マップ
アクセス
■JR中央線新府駅から徒歩約15分
■中央自動車道韮崎ICから約20分
新府城 周辺スポット
武田八幡宮

源清光の子・信義が元服して武田を名乗り、武田家発祥の地となった神社。 9世紀、嵯峨天皇の勅命により、宇佐八幡宮を勧請し、地神の武田王と合祀したのが始まりです。武田家の氏神として、代々崇敬されてきました。本殿は武田信玄が再建したもの(国指定重要文化財)です。
韮崎市民族資料館

民俗資料館では、縄文時代から近代の郷土の資料や発掘された出土品を展示しています。
屋外には、NHK連続ドラマ「花子とアン」で使用されたロケセットが移設されており観賞することができます。
続日本100名城スタンプ、御城印当施設でコンプリートできる。
新府城 周辺宿泊施設


















