【埼玉県】武蔵松山城

CASTLE DATA FILE.94
登城日:2026年1月26日
交通手段:東武東上線「東松山駅」下車→レンタサイクル
ステータス:国指定史跡
ジャンル:平山城
遺構:空堀・土塁・土橋
御城印:「吉見百穴」受付で購入

複雑に配された曲輪を深い空堀で分断。これぞ戦国の城!

先日訪問した、比企城館群として国指定史跡となっている杉山城と菅谷館。今回は同じ比企城館群の一つでもある武蔵松山城に初訪城です。

杉山城や菅谷館も個性溢れる素晴らしい城でしたが、武蔵松山城は北条氏の築城術らしさを感じる遺構が残ります。関東の戦国時代の歴史において、文献にも度々出てくる有名な城となります。

築城は室町時代に扇谷上杉氏の居城として築城されたと考えられています。その後、関東で勢力を強めた北条氏、越後上杉氏、武田信玄など名だたる武将が奪い奪われを繰り返しました。
北条氏の支配が長かったことから、北条氏によって改修されたと推測されています。

小田原征伐では前田利家、上杉景勝、真田昌幸を中心とした豊臣軍と激突し落城。
その後、徳川家康の関東移封によって松平家広が城主になるも、1601年に廃城となりました。

最寄りは東武東上線の東松山駅。駅構内の観光案内所で自転車をレンタルしました。
4時間500円、4時間を超える場合は1000円でした。
東松山駅から自転車で10分ほどで武蔵松山城(以降、松山城)に到着です。

城郭の隣に吉見百穴という観光名所があり、松山城を攻城する上でキーポイントになります。
自転車や車は吉見百穴の無料駐車場に停めることが可能です。

御城印も吉見百穴の受付で購入できます。
この謎の穴を見たら行ってみたくなり、御城印の購入と併せて入場しました。
城と隣接していることもあり、何か松山城との関連がありそうな予感。

吉見百穴の頂上から見た松山城。

吉見百穴は古墳時代(6世紀〜7世紀)に造られた横穴墓で、丘陵一帯が凝灰質砂岩で掘削に適した岩盤が広がったいるので、この場所を選択して横穴墓を造ったと考えられています。

ちなみに、明治の調査では237基もの穴が発見されています。

世界大戦の戦時中は、中島飛行機の地下軍需工場が造られ、巨大なトンネルが掘られました。
この工事が大規模なもので、松山城の地下まで掘られました。
吉見百穴で松山城のパンフレットもゲットし、早速向かいます。

吉見百穴に面する松山城の北西あたりは岩盤が剥き出しになっています。
伝承として武田信玄が松山城を攻めた際に坑道を掘って攻めようとしたという伝承が残っています。

そして、この岩盤を削って建てられたお堂が、岩室観音堂です。

ワタクシは最初にお堂を観覧したのですが、この岩室観音堂が松山城のファクターとなるので、後ほどご紹介したいと思います。

岩室観音堂の脇には、またしても岩盤を掘削した穴が現れます。
下の大きな穴は地下軍需工場の穴。
この直上が松山城になりますので、松山城の地下に戦闘機用の工場があるのが目で見て分かります。

他では見ることのできない光景。空襲で爆撃されなくて良かったと思ってしまいます。

松山城の前を流れる市野川。

地下軍需工場を作る際に、戦闘機の出入庫ができるように川の位置も変える大規模工事を行ったと、吉見百穴の施設内の映像で見ました。
本来はもう少し城郭に近い位置を流れていたのかな?と考えながら松山城の入口を目指します。

~3つある登城ルート まずは「本曲輪入口」から入城~

一番分かりやすくアクセスが良いのが本曲輪入口。ワタクシもまずは本曲輪入口から入城します。

本曲輪入口から登城すると、割と急な坂ではありますが15分ほどで本曲輪まで到着できます。
ワタクシは写真を撮り、立ち止まって考えながら登るので30分以上要しました。

登城路脇の腰曲輪。登ってくる敵を上から攻撃するために設けられたのでしょうか。

細い道をクネクネと曲がるので、敵を攻撃するには適した造りになっています。

しかし、中間には曲輪が展開されておらず本曲輪に直結しているので、守りが薄いような気もするので、当時使われていた道なのか疑問も生まれました。

青ラインが本曲輪入口からの登城ルート。

南側は市野川が流れており天然の要害なので、防御施設があまり必要としていなかった可能性もあります。

階段を登ると本曲輪になります。急な階段なので当時は
①ニノ曲輪方面まで周って本曲輪に入っていた。
もしくは
②本曲輪に隣接した小さな曲輪の太鼓曲輪から、木橋が架かっていて本曲輪に入っていた。

個人的な憶測です。廃城となった戦国時代の城は、後世に改変されていたり、城郭の資料が少ないこともあるので不明な点もまだまだ多くあります。
歩きながら想像を働かせるのも、戦国期城郭を攻略する醍醐味!

階段脇の空堀と太鼓曲輪。

本曲輪を囲む形で空堀があり、太鼓曲輪と分離されています。その横堀はそのまま斜面に沿って竪堀となって下に落ちています。

本曲輪は45m四方の広さで、中央には昭和時代にお堂が建てられた礎石が残ります。

本曲輪から見た太鼓曲輪。
草木で写真では伝わりにくいのですが深い横堀です。ここに橋が架かっていた可能性があると、個人的には推測しています。

~本曲輪は深い空堀で完全防備。本曲輪から二ノ曲輪へ~

本曲輪からニノ曲輪方面に向かうには、斜面を一度おりる必要があります。

堀底から見たニノ曲輪方面。
左側の本曲輪は突き出しているので、ニノ曲輪から攻めてくる敵を、側面部と正面から攻撃することができます。

本曲輪とニノ曲輪の堀底からみた土橋。
松山城は全体的に写真のような低い土橋で曲輪間を繋いでいるので、アップダウンします。
右側が本曲輪で左側がニノ曲輪。

ニノ曲輪から見た本曲輪の横堀。堀の深さは8m〜10mくらいあるでしょうか。
この深い空堀が本曲輪全体を囲んでいます。
ニノ曲輪よりも本曲輪は高くなっており、本曲輪から攻撃しやすくなっています。

ニノ曲輪。
本曲輪の東側に設けられており、軍事的重要な曲輪となっています。

ニノ曲輪と三ノ曲輪を繋ぐ土橋と横堀。
本曲輪同様にニノ曲輪も深い横堀で囲まれています。

横から見た土橋。
ニノ曲輪と三ノ曲輪を繋ぐ土橋の脇は曲輪が突き出ており、写真のように真横からでも敵を攻撃することができます。考え抜かれた築城の術です。

草木が多くて分かりにくいのですが、実際は深めの横堀となっています。

土橋の先は三ノ曲輪で細長いのが特徴な曲輪になっています。
三ノ曲輪は馬出と四ノ曲輪に接続されているので、一層深い横堀で囲み、東側は馬出も設けて防備しています。

ニノ曲輪から三ノ曲輪に入ると細長い形状から幅広い形状に変化します。両側は深い横堀。

三ノ曲輪の細長い形状の箇所は、土橋で馬出と接続。馬出は後ほど周ります。

三ノ曲輪から見た四ノ曲輪。
三ノ曲輪は高くなっており、四ノ曲輪とは相当な高低差があります。本曲輪と同じくらい深い横堀でした。

三ノ曲輪の北側は、曲輪が突き出しています。
先端には物見櫓があったのでしょうか。
惣曲輪、腰曲輪、四ノ曲輪の三方向を見ることができる設計となっています。

三ノ曲輪の斜面を斜めに降りて四ノ曲輪に移動します。

下がってVの字に上がると四ノ曲輪となります。

~武蔵松山城 最大の見どころ 三ノ曲輪の空堀の堀底を歩く!~

このは堀底が整備されているので歩くことができます。
右側が四ノ曲輪。左側が三ノ曲輪。圧巻の横堀によって曲輪を完全に分断!

堀底を歩くと所々で十字で敵を狙えるように、曲輪が突き出しているのが分かります。
北条氏の築城術ではよく見られる形式で、深い横堀で各曲輪を分断しているのも北条氏らしさを感じます。

度々、城主が変わった松山城ですが、これだけの大規模な土木工事を敢行する力があり、残された空堀や曲輪形状の遺構を考えると、やはり北条氏によって大改修されたのかなと個人的には考えます。

横堀の突き当たりも四ノ曲輪が突き出しており、枡形のようになっています。
通過すると惣曲輪と虎口がありますが、一度戻ってから四ノ曲輪に向かいます。

四ノ曲輪の特徴として土塁が残っています。

四ノ曲輪から見た横堀。先ほど歩いた堀底です。
クネクネと折れ曲がった喰違いになっていて敵の侵攻を防ぐ設計。上から攻撃し放題の眺めです。

続いて四ノ曲輪から一度、城外に出て惣曲輪の方へ向かいます。

四ノ曲輪の横堀。左側が四ノ曲輪で右側は腰曲輪。
この横堀も見事な形で残っています。

腰曲輪にも行ってみます。
周りは草木で囲まれていますが、曲輪自体は綺麗に整備されています。

腰曲輪の先端は突き出ており、物見櫓跡になっています。木が生えている為、景色は微妙でした。

松山城のもう一つの出入口となる「曲輪四の入口」。奥は四ノ曲輪の入口となり、右側には四ノ曲輪と腰曲輪が展開されています。

青のルートで一度出てから外側を周り「虎口入口」から再び城郭内へと入っていきます。

曲輪四の入口付近の、城郭東側には武蔵丘短期大学があります。地図の外郭にあたる場所で、本来は城郭でしたが、現在は遺構は消滅してしまいました。
本来は平地を含めた大きな城郭であったと考えられます。

一般道を通って城郭の外側を歩きます。
道の先の北側には根古屋があったようです。

松山城 3つ目の入口から再び入城します。
私有地感があり不安でしたが、A4サイズくらいの小さな城郭のマップが貼ってあったので間違いないと思い進みます。

道沿いを進むと惣曲輪となります。

惣曲輪から見た虎口跡。右側には虎口の土塁が残っています。

土塁の上から見た虎口と惣曲輪。

測量計の足が置いてあるので、張り紙を確認したら現在発掘調査中でした。虎口周りも調査されているようなので、新しい発見がありそうです!

再び三ノ曲輪と四ノ曲輪を仕切る横堀の堀底を通過して、三ノ曲輪と接続された馬出に向かいます。

途中、土塁が張り出した虎口のような箇所も確認できます。
松山城は本曲輪と惣曲輪しか発掘調査が行われていないので、まだまだ謎多き城です。

個人的にお気に入りのショット。
左側は四ノ曲輪、右側の上がっている道は最初に下ってきた三ノ曲輪に繋がる登城路。
横堀は外郭まで伸びており、分岐した真ん中の道を上がると馬出に繋がります。

~三ノ曲輪の防御のかなめ 馬出へ~

馬出と三ノ曲輪を仕切る横堀で、左の急な上り坂の先が馬出となります。

馬出は細長く、先端は丸くなっており、全体を見渡すことができます。

馬出から見た四ノ曲輪。下の横堀は馬出を囲むように分岐しています。

ここはベストスポットで、ほぼ360度ダイナミックな横堀を見渡すことができます。そして、このあたりは完全に迷路です。

馬出から見た土橋。馬出は細長く真っ直ぐ伸びて、右側に曲がって土橋を通過して三ノ曲輪に入ることができます。

馬出から見た三ノ曲輪と接続した土橋。
馬出よりも三ノ曲輪の方が高い場所にあるため、傾斜のついた土橋となっています。

土橋から見た横堀。
三ノ曲輪には行かず、馬出から横堀沿いを真っ直ぐ進みます。

三ノ曲輪からニノ曲輪に渡って繋がる横堀。
堀底から見ると横矢掛かりになっており、曲輪が張り出しています。

横堀の左側はニノ曲輪、右側は馬出から伸びている細長い曲輪。横堀が90度折れ曲がってニノ曲輪と三ノ曲輪を仕切る横堀に繋がります。

堀底から見た景色。左側がニノ曲輪、右側が馬出、奥に見える草の茂みは三ノ曲輪。
樹齢が高そうな大木があり、築城した時もきっとこの木はあったのだろうな。と妄想しながら歩きます。

曲輪、横堀、竪堀が巧みに配置されており、この辺りは完全に迷路状態。

~再び本曲輪に戻り搦手方面へ~

本曲輪から見た搦手側の虎口。
本曲輪には3つのルートが合流する曲輪になっており、笹曲輪方面、二ノ曲輪方面、そして搦手方面となります。

前述でも述べたように笹曲輪方面の階段になっている個所は、後世に造られた可能性がありますが、二ノ曲輪方面とこの搦手方面の虎口は当時からあったのではないかと思われます。

下から見た本曲輪の虎口。
土塁をくり抜いたような形なので、当時は門などあったのでしょうか。

搦手側の本曲輪の直下には兵糧曲輪が配置されています。
松山城の北西に位置しており、約45m×20mの曲輪で本曲輪とは横堀で仕切られています。

絵図や文書ではこの場所を特定するものは見つかっていないので「兵糧曲輪」という名称は通称になります。位置を考えると本曲輪を防備するための馬出に近い役割だったのかなと考えます。

兵糧曲輪の下には腰曲輪が配置されています。
北西側は切岸のように急斜になっており、守られています。

腰曲輪からの景色。
腰曲輪は惣曲輪と接続されています。

~()搦手口~

腰曲輪の脇には搦手口と伝わる竪堀を確認できます。山を削り落としたように深い谷となっています。

この岩盤を削ったような切通こそ、岩室観音堂の裏手なのです。
「伝」なので定かではではないようですが、縄張り的には十分あり得える話かなと思います。

今一度、松山城の搦手口という視点で見てみます。
左側は惣曲輪で右側が腰曲輪になります。

切り裂いたような岩の間に建てられた不思議な建築物。倒壊から守るため鉄骨で補強はされていますが風格が漂います。

この観音の始まりは810年〜824年と言われています。松山城主が代々 信仰し護持していましたが、小田原征伐による豊臣軍との攻防戦で、兵火によってお堂は焼失してしまいました。

現在のお堂は江戸時代の1661年〜1673年に再建されました。
当時からお堂があり、ここが搦手口だったと考えると、お堂が櫓門に見えてきます。

お堂には階段で登ることができます。岩盤と木造伝統工法のコラボは迫力あります。
岩壁には穴が空いており、88体の仏像が祀ってあります。

急な階段を登ったニ階は、入り組んだ小屋組を見ることができます。

お堂の二階から見た搦手の竪堀。

下から見たお堂。
ちなみに、鬼瓦などに施された家紋は明智家と同じ桔梗紋でした。

松山城に来た際は、ここが城の裏口だったと想像しながら見て頂きたいです。
崖の斜面にも石仏が置いてあります。

右側が腰曲輪、左側が惣曲輪となります。
現在は立ち入りができませんが、下からでも迫力の景色を見ることができます。

振り返った一枚。
搦手口だと知ってから見ると、岩室観音堂のお堂はまるで城門に見えます。

これでメインの城郭内は、ほぼ周ることができました。松山城は名前の無い小さな曲輪も多くあり、1601年に廃城となった当時のままの状態で保存されています。
本曲輪から四ノ曲輪までは直線で配置され、その周りに幾つもの曲輪が展開され、迷路のようになったいます。

城郭の東側には竪堀が幾つかあるようですが、草が多くて確認することは困難でした。
発掘調査や整備が進めば新しい発見も期待できます。

全国に松山城と名の付く城はいくつもある中で、武蔵松山城は戦国時代の真っ只中を生きた城で、見どころ満載で宝探しをしているようなワクワクが止まりませんでした。戦国期の土造りの城は奥が深い!

ハチやヘビの注意喚起の看板があるので、シーズンによっては注意が必要です。
約2時間半ほど歩き、松山城を攻略。素晴らしい遺構を楽しむことができました。