広島城

Contents
見どころ
- 復元された二の丸の建築物
太鼓櫓・多門櫓・平櫓・表御門が木造復元。真壁造の伝統工法が見どころ - 戦争の爪痕が残る 中御門の原爆で被爆した石垣
- 外観復元された大天守
- 時代の古い無骨で芸術的な14mの天守台
- 本丸を囲む広大な内堀と石垣 (他の城の天守台クラスに大きい櫓台が幾つも連なります)
概要
広島城(ひろしまじょう)は、安芸国佐東郡広島(広島県広島市中区基町)にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。
毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していたが、戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである。
別名 | 鯉城、在間城、当麻城 |
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城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 複連結式望楼型5重5階(1592年・非現存) 外観復元(SRC造・1958年再) |
築城主 | 毛利輝元 |
築城年 | 1589年(天正17年) |
主な改修者 | 福島正則 |
主な城主 | 毛利氏、福島氏、浅野氏 |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | 外観復元大天守・表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 |
概要
江戸時代初頭に入城した福島正則の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲のうち、現在の史跡としての広島城は広島市中央公園内の内堀を含む本丸跡と二の丸跡の範囲で、広さ約12万m2 と三の丸跡の一部が残る。
なお、城内に広島護国神社の敷地があるが、同神社の敷地については1956年に公園区域からは除外されている。
大坂城や岡山城などと共に初期近世城郭の代表的なもので、また名古屋城、岡山城と共に日本三大平城に数えられる。日本100名城の一つに選定されている。
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』によると、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。
1592年に毛利輝元によって創建された大天守は、外壁仕上げの下見板張りや最上階に高欄を持つ外観仕様が国宝指定(1931年)の理由の一つとなった。近代は日清戦争時に、本丸に大本営が置かれるなど軍都広島の中心であった。1945年のアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下により、現存していた天守は倒壊し、櫓や城門も失われた。
近年の研究で天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している。現在の天守は鉄筋コンクリート構造による外観復元天守である。
外観復元された大天守は歴史博物館「広島城」として利用されている。 2023年現在大天守、小天守、中御門、裏御門、本丸御殿、本丸多聞櫓の木造復元計画があるが移動できる土地が無い為、護国神社は移築する予定はない。
本丸跡、二の丸跡以外は都市開発により城跡の面影はなく、史跡外で確認できる遺構は、堀の石垣の天端石、広島高等裁判所敷地内にある中堀土塁跡、空鞘橋東詰南側の外郭櫓跡程度である。
2003年、中区八丁堀の国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所での発掘作業で、「鯉の金箔瓦」が1点出土している。金箔が施されていることから毛利氏時代のものと推定されているが、天守と関係あるものかは不明。
築城
1589年(天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現東区二葉山)・新山(現東区牛田)・己斐松山(現西区己斐)の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決めた。
1589年(天正17年)4月15日鍬入れ式。穂井田(穂田)元清と二宮就辰を普請奉行として、築城が開始された。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれる。
1590年(天正18年)末、堀と城塁が竣工したことから、1591年(天正19年)1月8日に輝元は入城した。1592年(文禄元年)4月、文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中の秀吉がここへ立ち寄って城内を見物している。
1593年(文禄2年)石垣が完成、1599年(慶長4年)に全工事が完了し落成した。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている。
完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれるが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。
藩政時代
福島氏時代、穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われた。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃である。
二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石街道を整備したといわれ、町人町が拡大した。この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、1609年(慶長14年)正則は謹慎を言い渡されている。さらに、1619年(元和5年)、正則は洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築ととがめられ、改易され信濃国川中島へ転封された。
同1619年(元和5年)8月8日、浅野長晟入城以降は浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いた。
1864年(元治元年)第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る。戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から江戸時代の間、この城は戦の舞台にはならなかったことになる。
近代
同年12月、本丸に鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)第一分営が置かれると県庁舎は三の丸に移転した。1873年(明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになる。
1873年(明治6年)3月、三の丸に兵営が置かれると、県庁舎は国泰寺へ移っていった。1875年(明治8年)4月歩兵第11連隊設置、同年6月西練兵場設置。一方で解体や火事により江戸時代の建物は失われており、特に1874年(明治7年)本丸および二の丸で起こった火災では、本丸御殿が全焼した。
1887年(明治20年)、広島の開基地ということから、旧城廓内であるこの地を正式に「基町」と名付けられたと言われている。
1888年(明治21年)5月、広島鎮台は第五師団に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市は軍都として近代都市へと発展していった。当時は基町全域が軍用地であった。
1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が設置される。同年9月15日から1895年(明治28年)4月27日まで明治天皇は広島に行幸した。これに伴い第7回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能した。
日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになる。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、1911年(明治44年)11月外堀埋立完了、1912年(大正元年)西塔川埋立完了、1915年(大正4年)平田屋川埋立(減幅して溝に)完了した。
その埋め立てられた土地には、1912年から1918年(大正7年)にかけて道路(相生通りや鯉城通り)や広島電気軌道(広島電鉄本線・広島電鉄宇品線・広島電鉄白島線)が整備されると、旧外堀の一部は繁華街となっていった。
太平洋戦争末期
太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった。ここは爆心地からほぼ1キロメートル離れたところに位置した。
建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失している。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している。
現代
戦後、本丸および二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していた。市民の中では当初、内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるものもいた。
平和運動の一環として長田新旧制広島文理大学教授を中心に、本丸に自由の女神のレプリカを建てる運動も起こった。市や市議会は大本営跡を原爆記念保存物に選ぶなど被爆により荒廃した広島で新たな観光の目玉を欲していたことから天守再建を望んだが、文化財関係者は被爆により廃墟になった現状こそ価値があると再建反対に回った。
1953年(昭和28年)3月31日、。跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった。戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した。
1957年(昭和32年)10月20日着工、翌1958年3月26日竣工。同年6月1日、広島城郷土館(現在の博物館)が開館した。また、この時期に広島護国神社が本丸に移転再建し、中堀も埋め立てられ内堀だけとなった。
築城400周年・市制100周年を迎えたことにより改修を行い、1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけて、二の丸の復元や堀の浄化作業が行われ、博物館も展示内容を見なおされている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(73番)に選定された。再建天守の老朽化が進んだため、現状からの耐震改修の他、木造再建も検討されている。
天守
天守の形式は連結式と呼ばれるものの内、特に複連結式と呼称される「五重の大天守から渡櫓で南と東に2つの三重小天守を連結する」構造であった。
大天守の高さは『広島藩御覚書帖』によると、17間6尺(約32.7メートル)あった。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた。
その一方で、内部は天井も張られずに丸太の梁が剥き出しであった。藩政時代において天守はほぼ物置として使われており、築城から江戸時代の間この城自体は戦場にはなっておらず、戦中は旧陸軍の重要書類が多数積み込まれていたことから、終始倉庫として利用されていたことになる。
1873年(明治6年)以降、経緯は定かではないが小天守は撤去され、天守群は大天守と付属する一部の渡り櫓が残った。
1958年現在の大天守入口前広場が南の小天守と渡櫓の跡にあたり、東の小天守台には基礎が残っている。1931年(昭和6年)、他の現存する建造物とともに国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されていたが、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による原子爆弾投下の影響によって倒壊した。
倒壊後はしばらくそのまま放置されていた。建材のその後に関しては定かではない。
藩政時代における広島城の特徴として、広さ約90万平方メートルの広大な城域を取り囲むように88基の櫓が置かれたことが挙げられる。『広島藩御覚書帖』による各曲輪の櫓基数は、本丸23基、二の丸5基、三の丸17基、外郭43基。
上記の通り特に西側を増強し、本川(旧太田川)に沿って11基もの櫓が二重に建てられその間を塀で結ばれている。
遺構
石垣
1589年(天正17年)8月、毛利輝元は家来に堀の工事と石材の収集を命令したと伝えられている。
石材の殆どは緻密で硬いことから花崗岩が用いられている。瀬戸内海は良質な花崗岩の産地が多いことから主に沿岸部から運び込まれており、近年の調査で黄金山や江波山(この当時は島だった)、倉橋島、屋代島(周防大島)などの島々からも運び込まれたと判明している。
本丸北東付近、本丸上段東端の不規則につまれた状態で途切れている石垣は、福島正則の改易騒動を史実的に裏付けるものと考えられている。正則が改易される少し前に、幕府は一度条件付きで正則を許している。
その条件の一つに修築した石垣の破壊が盛り込まれていた。この部分は正則が破壊した石垣の境界部分と考えられている。
広島市への原子爆弾投下の際に、内堀の一部石垣が崩れていることが米軍の空中写真により分かる。表御門や中御門にある石垣の一部に焦げたような跡があるのは被爆により発生した火災によるものである。
堀
上記の通り、明治期に外堀が、戦後昭和30年代までに中堀が埋め立てられ、現在は内堀のみが残る形である。紙屋町・八丁堀周辺の歩道に、外堀があったことを示す石碑が建っている。
戦後、外堀中堀と埋め立てられたせいで内堀は循環機能を失った"ため池"となり、更に周辺の都市開発の影響により地下水位が低下したことから内堀は枯れ始め、富栄養化も目立つようになる。様々な対策が行われたが、アジア大会開催を機に抜本的な対策が取られることになった。
それは、旧太田川(本川)から川水を取水し、内堀まで導水、循環させ、再び本川へ流出する導水路および流水路の建設工事で、建設省(現国土交通省)と広島市による共同事業となった。これら導・流水路および内堀は、一級河川旧太田川を本流とする準用河川に指定されている。
金鯱瓦
2009年(平成21年)3月、広島市中区上八丁堀の広島地方合同庁舎5号館建設による前調査の際に、金鯱瓦が一対発見された。
発見された場所は、本丸から見て東側の中堀と外堀の間に位置していた武家屋敷にあたり、井戸跡の底に大量の瓦と共に埋まっていた。ほぼ完全な状態での金鯱瓦出土は国内初で、更に日本でも古い部類の鯱瓦にあたることから、完品として現存最古の金鯱瓦である。
発見された珍しい瓦は以下のとおり。これらは築城当時の毛利氏時代のものと推定され、地下水に浸っていたため腐食しなかったと考えられている。
金箔瓦が作られた当時の豊臣政権下において、この瓦は「権威の象徴」とみなされ設置は秀吉の許可が必要だった。
また豊臣政権下でのこの瓦は朝鮮や明からの使者に日本の栄華を見せつけることを主目的としたため、同時代に築城した北部九州から大阪にかけての城でいくつか出土例があり、県内では厳島神社でも出土している。
旧三の丸の遺構
多家神社の宝蔵
校倉造りだが、他に例の少ない四角形に近い断面六角形の校木を使用している。
上記の通り、近代は軍用地として拡張し被爆により建物全壊、戦後は都市開発により、藩政時代の面影を残すものは極めて少ない。ただ明治期に移築した旧広島城の建物はいくつか現存している。
多家神社
安芸郡府中町にある神社で、元々は三の丸にあった稲荷社が1874年(明治7年)に移築されたもの。その後火災により焼失し、宝蔵のみが現在旧広島城時代の建物としては唯一のものとなっている。
1954年(昭和29年)、多家神社宝蔵が広島県重要文化財に指定された。
学問所
学問所は、江戸時代後期に三の丸に存在し、跡地は現在広島高等裁判所の敷地として利用されている。1725年(享保10年)に広島藩主浅野吉長が「講学所」として開校した藩校が前身であり、1782年(天明2年)2月学問所開校、1870年(明治3年)8月移転し、現在は修道学園(修道中学校・修道高等学校)として存続している。以下は学問所関連の遺構である。