福知山城

福知山城(ふくちやまじょう)は、丹波国天田郡福知山(京都府福知山市字内記内記一丁目周辺)にあった日本の城(平山城)。

江戸時代には福知山藩の居城であった。1965年10月14日、市の史跡に指定。2017年には、「続日本100名城」(158番)に選定された。

見どころ

▪️明智光秀が築いた天守台に多く使われている転用石

▪️本丸にある井戸では日本一の深さ50mを誇る、豊磐(とよいわ)の井戸

名城スタンプと御城印

▪️続日本100名城スタンプ:福知山城天守閣内

▪️御城印:福知山城天守閣内で購入

福知山城周辺の天気

別名横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
城郭構造連郭式平山城
天守構造複合・連結式望楼型(1699年(元禄12年)築)
現在:外観復元(1985年(昭和60年)再)
築城主明智光秀
築城年1579年(天正7年)
主な改修者有馬豊氏
主な城主明智氏、朽木氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構曲輪、石垣、井戸、移築番所・門
指定文化財福知山市史跡(石垣部分)
再建造物大・小天守・釣鐘門

登城レポート

2025年8月9日:初訪城

1985年に復元された福知山城天守

動画で見る福知山城

福知山城について

現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。

豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。

現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。

公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。

市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。

東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。

東、北、西は断崖で要害の地でもあった。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップされている。

歴史

中世後期(横山城の戦い)

明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。

当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。

これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。

塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、破れて自刃して死去した。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、逃走する途中に林半四郎らに川北周辺で襲われ戦死した。

これを機に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。

明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変となり明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城の留守居役となっていたらしく、羽柴秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑された。

明智光秀は山崎の戦いで敗北し後に殺害された。明智光秀の在城期間は3年間だけであった。

現代

廃藩置県後の1871年(明治4年)によって廃城となり、1873年(明治6年)の廃城令によって解体された。建物は払下げとなり二の丸の台地は埋め立てられた。

二の丸の建物は1887年(明治20年)取り払われ、建物一部の瓦は寺院や民家に使用された。二の丸の台地は削り取られ、城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わっており、これらは福知山市重要資料に指定されている。

最後に残っていた二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、1916年(大正5年)に天守台に移築された。

1982年(昭和57年)に市長が天守再建の意向を示し、1983年(昭和58年)には調査費が計上されると、1984年(昭和59年)には再建(郷土資料館建設)期成会が発足した。

1口3000円の寄付を募る「瓦一枚運動」などで5億円以上の寄付金を集めた。一般寄付金1億6000万円、国庫補助1億4000万円、京都府補助230万円などを合わせて、総事業費は8億1372万円。

福知山市の一般財源にはほとんど頼っていない。1985年(昭和60年)には小天守と続櫓が完成、1986年(昭和61年)には大天守(郷土資料館)が完成し、同年11月9日に竣工式を行って11月10日に開館した。

2017年(平成29年)には日本城郭協会が認定する続日本100名城(158番)に選定された。

2020年(令和2年)、福知山城天守の写真が発見された。写真は不鮮明ながら全容を確認することができ、ほぼ正しい姿で再建されていることが裏付けられた。

城郭

福知山城は、明智光秀が築造後、その後多少の修築は行われたが、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。

丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。

全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまった。

その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀を巡らしていた。

城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされている。いわゆる惣構えとなっていた。

稲葉氏時代の絵図には、本丸と二ノ丸の間は「カラホリ」と「橋」を記している。この時代は本丸と二ノ丸は分断されていたと思われているが、稲葉氏時代の絵図以外には見られないので、それ以外は埋められたものと考えられている。

二ノ丸から西の伯耆丸は有馬豊氏の弟有馬重頼(有馬伯耆重頼)の館があったところである。

本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われている。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。

遺構の調査で転用石材の使用や天守台周辺のIからIII期にわたる改修が確認されており、I期が光秀の支配期と推定されている。

マップ

写真でみる福知山城