小倉城@福岡県

2025年6月14日
2年ぶりに福岡県北九州市の小倉にやってきました。
2年前に仕事の出張で2回も小倉に来ていたにも関わらず、時間がなくて小倉城に行くことができなかった為ずっと心残りでした。
小倉城は続日本100名城で毛利氏が現在の位置に築き、関ヶ原で功を上げた細川忠興が1602年に本格的に築城。
細川氏が熊本に転封後は小笠原氏がこの地を納めました。
関門海峡に面した、陸海の交通の要衝として重要視された城でした。
山口県で用事があった為、新山口駅から新幹線で小倉駅に到着したのは17時頃。

小倉城の目の前には海に直結する二級河川の紫川が流れています。
川沿いの堤を見ると、石垣で形成されているのが分かります。
積み方を見ると間違いなく当時のもの。
後ほど、改めてゆっくりみたいと思います。

小倉駅から一番近い入口は虎の門。
中堀に橋が掛かっており、門跡には巨石が使われています。

虎の門は枡形になっており、石垣のみが残ります。
小倉城には大小合わせて48もの門がありました。
虎の門は二の丸に住む上級家臣が登城していた門と言われています。

虎の門を抜けると庭園があり、その先に早速天守が出現します。
初代小倉藩主の細川忠興によって造られた天守は1837年に火事によって消失。
現在の天守は1959年に鉄筋コンクリート造で新たに造られました。

小倉城は南蛮造りという、最上階が下階よりも跳ね出しているのが特徴。
南蛮造りは山口県の岩国城や、復元が噂される香川県の高松城が代表的。
巨大な破風が目立ちますが、当時は千鳥破風や唐破風などもなく、シンプルな層塔型の四重五階の天守でした。
現在の天守はかなり派手にアップデートされています。

天守は小倉のシンボルになってるので、目が天守に行きがちですが、個人的には立派な天守台に感動しました。
慶長期の直線的で一定の勾配が特徴。
自然石をそのまま使用した野面積みですが、虎の門同様にやはり使用されている石材がゴツい!

特にコーナー部の隅石は大きくて圧巻なので、天守だけでなく天守台の石垣も是非見て頂きたい。

天守台石垣の高さは18.8m!
個人的に小倉城と同じ慶長期の野面積みで素晴らしいと感じた天守台
広島城12.4m
会津の鶴ヶ城11m
岡山城14.9m
数字だけ見ても、天守台石垣の凄さを感じることができます。
さらに水堀に浮かんでいるので、迫力が段違いです。

天守の左側より本丸に向かいます。
大手門も石垣のみが残っています。
大手門の右側が本丸の石垣。左側が松の丸の石垣。

大手門の石垣は本丸に直結した正門になる為、より一層威圧感があり、格式の高さを感じます。

大手門の左側の丸の丸石垣。奥側がアーチ状に緩やかなカーブを描いているのが芸術的。

大手門の先も90度に折れ曲がります。
大手門を抜けた先には槻門がありました。
いずれも石垣しか残っていませんが、かなり厳重な造りになっています。

上から見た大手門
ちなみに現在の大手門は小笠原氏時代の大手門で、細川氏時代の大手門は反対側の西ノ口門側にありました。

大手門の先にあるのは槻門。
天守に向かう為の門となります。

槻門の別アングル。
見ての通り石垣の積み方が変わります。
本来の槻門は現在天守に向かう道にありましたが、後に陸軍が小倉城に駐屯した際に積んだ石と言われており、この辺りは場所もやや変わっている様子。

槻門と鉄門の間には井戸跡があります。
城壁の石垣をヘコませて井戸が設けられています。
これはかなり珍しいスタイル。

槻門と同じ並びにあるのは鉄門。
こちらは本丸に向かう為の門になります。
現在の本丸は石垣のみが残っている状態なので、全体を見渡すことができます。
しかし、当時の建築物があった姿を想像すると、あらゆる箇所に門が設置されていることで迷ってしまいそうな独特な造り。

西ノ門から撮影した鉄門。
階段の上が本丸となります。
左側は間違いなく当時の石垣だと分かりますが、右側はちょっと不明。

本丸側から見た天守台。
現在一部、石垣が修復工事中でした。
大天守には渡櫓があり、その先に小天守がある連結式になっていますが、当時は小天守はなく平櫓が接続しているのみだったようです。

天守の脇には多聞口門があり、先は八坂神社に繋がります。
そして多聞口門には着見櫓が建っています。

着見櫓は沖を通行する船の監視のために設けられました。
1960年に木造で復元。中に入ることはできませんでした。
八阪神社に向かう門は閉まる時間が早いので注意。
ちなみに現在の八坂神社の場所には北の丸がありました。

本丸から見た西側の本丸石垣と水濠。
素晴らしい状態で石垣が残っています。
水堀の対面に見えるのが西ノ口門。

続いて西ノ門跡。
こちらが細川氏時代の大手門です。
石垣の左側が本丸、右側が松の丸。

西ノ門から見た松の丸の石垣も圧巻です。

西の丸から見た本丸石垣。
本丸が一段高く断崖絶壁になっています。
天守台の次に高い石垣は、おそらく西側から見た本丸石垣でしょうか。
ここも必見です!

内部からみた西ノ口門。

東側から見た松の丸の石垣。
先ほどは大手門側から見ましたが、やはりこの石垣には美を感じてしまいます。

個人的に小倉城のベストスポットは断然リバーウォーク側から見たショット!
大手門側から見るショットは定番ですが、このスポットから天守を見ると南蛮造りが映えて、さらに天守のゴツさが一番分かりやすい。
小倉城天守ってこんなに大きいのかと感じるのはリバーウォーク側です!

実際、小倉城天守は規模が大きいのです。
一番大きな床面積を誇る天守は江戸城です。
次に名古屋城、徳川大阪城と続き、次に小倉城となります。
小倉城の床面積は27.9m×24.3mなので、ビックスケール。
城郭全体も城下町を取り込んだ総構えだったので、当時は全長8kmもありました。
今残っている遺構はほんの一部ということになります。

堤の石垣がどうしても気になったので、最後に常盤橋を見に行きます。

橋の隣には石材が置いてあり、調べるとこれは江戸時代に常盤橋を支えていた石柱でした。
細川忠興が1602年に紫川の東側に東曲輪を築城した跡に、橋を架けたのが始まり。
平成の河川敷の改修で出土したそうです。
何気なく歩いてみた先で見つけた、とんでもない遺構。
最近、良い嗅覚が身についてきたのかな。
ひと通り小倉城を見てまわったので、近くで予約したホテルにチェックイン。
ホテル到着が19時半だったので、なかなか歩きました。
明日のためにゆっくりと休息を取ることに・・・
いや、小倉城を堪能するならこれからです!!
ホテル滞在時間20分。暗くなったのを見計らって再び外出!
風俗街を通過しても一切目もくれず、夕飯も食べず小倉城へ向かいます。

紫川が綺麗にライトアップされていて綺麗です。
特に右側の水面に光っているのは堤の石垣。
これはお洒落でアイデアが素晴らしい。

北九州市の街並みはとても良き。
やはり水が多い街は素敵です。

虎ノ門の石垣もライトアップで幻想的に浮かび上がります。

リバーウォークから見た天守!
明るい時とは違った姿を見ることができます。
やはり宿泊するならライトアップはお勧めです。

そして、今回の訪城で1番のショットがこれ!
水堀に幻想的に浮かび上がる逆さ天守を撮ることができました!

こちらはデジカメでモードを変えて撮った一枚。
白漆喰の外壁が暗闇にクッキリと浮かび上がり、これもお気に入りの一枚。
天守台もかっこいい!

本丸石垣も美しく輝きます。

大手門から天守の下まで行ってみます。
夜のお城って、昼間とはまた違ったワクワク感がありテンションが上がります。

小天守と大天守。
土曜日はナイトキャッスルバーとなり、天守最上階がショットバーになるということで、楽しみにしていたのですが、この日は貸切のため内部に入ることはできませんでした。
それでも、十分なほど小倉城を楽しむことができました。
最後に、小倉城の建築物が遺構として残っていないのは、江戸時代の終わりに、「小倉藩を中心とした長州藩との戦い」がありました。
幕府は征長(長州藩を倒す)の軍を興しました。そして、その中心的役割となったのが小倉藩でした。
近代的戦術を駆使した長州藩との戦いは、1867年(慶応3年)両藩の間に和議が成立し小倉藩を中心とした長州藩との戦いが終結することになりました。
長州藩との戦いで小倉藩が負けたため、門司区・小倉北区・南区の三区の領地は長州藩預かりとなり、毛利氏の支配下に置かれることになりました。
また、この戦いで小倉城楼門の一つにあった大太鼓と城内の燈籠一対が戦利品として下関に持ち帰られました。
その後、再び小倉・肥後軍と長州軍の戦いが勃発。
幕府軍は、小倉藩を中心に肥後藩、柳川藩、久留米藩の兵およそ20,000人が集結。
一方、高杉晋作が指揮する長州藩は、奇兵隊・長州藩報国隊などおよそ1,000人と少数でした。
1866年6月、長州軍が田野浦(門司区)に上陸したことからこの戦いがついに始まりました。
圧倒的な人数をほこる小倉軍でしたが、鎧かぶとを身に着け、火縄銃と槍・弓矢で戦ったのに対し、火力が強く続けて弾を撃つことが出来るケーベル銃で武装し、ズボン姿の身軽な服装の長州藩が次第に有利になり、小倉軍は大里から藤松へと退きました。
7月27日には肥後軍をはじめ、他の藩は引き上げてしまいました。小倉藩も8月1日、自ら小倉城に火を放ち、香春に退き、小倉南部で抵抗を続けました。
巨大城郭の小倉城は最後はなんとも壮絶。
幕末は新政府軍と東北地方の戦いがクローズアップされがちですが、西の戦いの歴史に触れることができました。
小倉城天守は忠実な復元とはかけ離れていますが、このシンボルを求めて観光に来る人がいて、この街の歴史に触れるきっかけとなる。
これもまた現代の城の役割の一つなのかもしれませんね。
素晴らしい時間を過ごすことができました。