【長野県】松代城

CASTLE DATA FILE.98
登城日:2026年2月6日
交通手段:しなの鉄道線「屋代駅」から路線バスで25分
ステータス:日本100名城・国指定史跡
ジャンル:輪郭式 平城
遺構:石垣・土塁・堀
復元建築:太鼓門・塀・北不明門
スタンプ:真田邸前で押印
御城印:松城観光案内所

決戦 川中島の戦いの舞台。そして真田十万石の地 松代城

前日に小諸城と上田城を攻略し、上田市内で一泊。
2日目は朝から同じく長野県の日本100名城 松代城へと向かいます。

真田家にとって上田城が戦国時代の激動を生き抜いた城であれば、松代城は江戸時代に真田家の繁栄と太平を象徴する城です。

上田城を築城した真田昌幸の息子で真田幸村の兄である真田信之は、1622年に上田城から10万石の大名として移封となり松代藩主となります。
以降は幕末まで真田家が藩主を務めます。

松代駅は2012年に廃線となっており、公共交通機関で行く場合は路線バスの利用が必須となります。
ワタクシは しなの鉄道「屋代駅」から路線バスで旧松代駅まで向かいました。約30分程で到着できます。長野駅からも路線バスが走っていますが、上田城とセットで周るのであれば、上田駅と屋代駅は電車で20分ほどなので、屋代駅からの方が到着が早いと思われます。

バスの本数には限りがあるので注意が必要です。

旧松代駅。
廃線になってもレトロな駅舎が残っており、今はバスの停留所になっています。舎内はそのままの状態で残っています。

駅のホームもそのまま残っています。
旧松代駅のすぐ裏手が松代城になります

早速、二の丸を囲む土塁が現れます。
松代城は明治の廃城令後、本丸と二の丸を残して、市街地となり堀も埋められてしまいました。

石場門から二の丸に入城します。
東側の二の丸と馬出を繋ぐ門となっており、現在は堀と馬出は埋められ平地となっています。

二の丸側から見た石場門。
石場門の石垣は土塁の土留めの為と考えられています。礎石は保存のために地中に埋められ、レプリカの礎石が設置されています。

東側の二の丸は広場となっており、土塁で全体を囲んでいます。
土塁は復元整備されました。

二の丸東側から見た景色。
上田と松代は距離としては近いのに、松代は明らかに寒かったように思えます。上田には全く雪が無かったのに対して、松代は日陰には雪が残っていました。

新潟方面は美しい雪景色を見ることができました。

本丸の南東側。
右側に見えるのは本丸と二の丸を繋ぐ東不明門前橋。

橋の先には櫓門形式の東不明門がありました。
基本は本丸南側の太鼓門から出入りをしていたようですが、東不明門は太鼓門が崩落した際の緊急の門で、通常は閉じていました。

平成の大普請で蘇った城郭の姿現在も復元工事は続く

続いて本丸南側の太鼓門から入城します。
太鼓門橋と橋詰御門、奥には太鼓櫓が復元されています。

横から見た太鼓門橋と橋詰御門。
内堀の調査で堀の中から30本以上の折れた橋脚が発見され、災害の度に橋が崩落して破損したという当時の記録が裏付けされました。

江戸時代末期の絵図を元に忠実に復元されています。

太鼓門橋からみた水堀。
この橋から攻めてくる敵を狙い撃つ狭間も再現されています。

反対の左側は出隅になってクランクしています。

橋詰御門と塀。
2004年に太鼓門と共に復元されました。塀は下見板張りの仕様となっています。

橋詰御門は高麗門形式。
珍しいのは松代城にある城郭の建築物には、瓦葺きではなく、板張りが採用されていること。

橋詰御門を抜けると桝形になっており、石垣には所々に巨石が使われています。

現在も松代城のシンボルとなっている太鼓門。
門の礎石が良好だった為、そのまま利用され復元されたようです。

松代城では最も大きい門で、藩士に登城の時刻を知らせたり、緊急連絡を知らせる太鼓が設置されていたことで、太鼓門と呼ばれました。

太鼓門の先には本丸が広がります。
反対側の本丸北側には北不明門が復元されています。

本丸側から見た太鼓門。
間柱や長押が外壁にむき出している真壁造り。古風な造りが何故か心落ち着きます。

板張りの屋根も特徴的ですが、屋根構造も独特。
入母屋ではなく切妻屋根が採用されています。
何となくこの角度から見上げると、神社で見られる建築物のように見えてきます。
城郭建築の城門は、入母屋が多いので是非他の城と見比べて頂きたいです。

本丸に建てられた石碑。
海津城跡の石碑と書いています。戦国時代に武田信玄が支配している時は海津城という名前でしたが、江戸時代に幕府の命によって松代城と名称が変わりました。

本丸東側の石垣。
二の丸など、基本的には土塁など土造りの城ですが、本丸は石垣で形成されています。

本丸北西の戌亥隅櫓跡は整備されて、階段で上に登ることができます。

きっと石垣好きには、たまらないショット。
幾つも屏風の様に折れ曲がった石垣。

北西の戌亥隅櫓の石垣。
松代城には4隅に二重櫓が建っていたとされていますが、そのなかでも戌亥隅櫓は一際大きな櫓台です。

自然石を巧みに積み上げた野面積み。
松代城の中でも古い時代の石垣らしく、勾配が緩やかです。

櫓台というより天守台並みの大きさ。

戌亥隅櫓の上部は展望台のように整備されています。
事前にコンビニで買っていた朝食のおにぎりをここで食べました。× 3倍くらいに美味しく感じます。

戌亥隅櫓跡から見た妻女山。
上杉謙信は第四次川中島の戦いで妻女山に陣を敷いたとされています。
そして戦国史上最大の戦 上杉謙信VS武田信玄による第四次川中島の戦いが勃発。

諸説ありますが勝率90%を超える横綱大名同士の戦いは熾烈を極め、死傷者は1万人を超えたとも言われています。

天下分け目 関ヶ原の合戦よりも死傷者が多い戦となりました。

松代城からバスで15分ほどの場所に、川中島古戦場があるので、時間がある方は行ってみると川中島の戦いについて深掘りして学ぶことができます。

戌亥隅櫓から見た北不明門。
本丸北側の石垣は複雑な折れを駆使した造り。

一応、外枡形になるのかなと思いますが、少し変わった造り。防御力はあまり高くないように見えます。

戌亥隅櫓から見たら二の丸西側の土塁。
およそ高さ3mくらいで、二の丸の西側と北側を仕切るように土塁が形成されています。

北不明門から一度、本丸を出て内堀の周りを歩きます。
北不明門は太鼓門と同じ二重の櫓門形式ですが、石垣の上に乗らない独立した門の造りが特徴。

北不明門も枡形を形成。目の前で見ると城郭の威厳を感じます。

今残っている松代城はコンパクトですが、バリエーションある門を見ることができます。

北不明門の入口は高麗門。
橋詰御門と同じ高麗門ですが、やや小ぶりな造り。しかし、横塀も折り返しが付いておりゴツく重厚感があります。

当時は千曲川の河川敷に位置していた門なので、水ノ手御門とも呼ばれていました。

城内の案内板より。
松代城の全体図。本丸と二の丸全体を水堀で囲んだ造り。武田信玄の時代には土造りの城でしたが、随所に武田氏らしい甲州流築城術が駆使されています。

北不明門の前の広場には井戸跡があります。

平成の大普請の名の下に、崩れた石垣や土塁が修復・復元が行われた松代城ですが、この立派な石垣を持つ戌亥隅櫓は積み直しがされることなく、欠落した小石を詰める程度で当時の原型を留めています。

松代城の石垣を楽しむなら、二の丸から見る戌亥隅櫓がおすすめ。

北側虎口から見た二の丸と本丸。
雄大な山々と復元された二つの門が同時に見ることができる、ナイスアングルです。

北側虎口の左には新堀跡と土塁があります。本来は千曲川がこの辺りまで流れており、北側を防備していました。

右側は住宅地になっていますが、当時は百間堀という水堀が北側半分と西側の二の丸を囲んでいました。
現在は土塁のみが残ります。

二の丸の北側と西側は土塁で仕切られており、土塁を貫通させた埋門があります。

緊急時には埋めて通路を遮断する目的がありました。当時は二の丸に同じ様な門が二つ存在していました。
現在の埋門は絵図を元に復元されました。

埋門の前から見た土塁と戌亥隅櫓。
当時の姿が見事に再現されています。

二の丸南側の土塁。現在、南側は大工事中。

半円の曲線を描いた土塁。

甲州流築城術の代名詞の一つ、丸馬出と三ヶ月堀を現在復元中。
今後の松代城が楽しみです!

工事が完了したら、また是非来たいと思います。

明治の廃城令で城は取り壊され、姿形すら残っていない城は全国に多くあります。
遺構を復元するには並々ならぬ時間と労力と努力を費やします。城門一つを復元するにも、調査を含めて数十年の時間を要します。

城の文化的価値を見い出し、次の時代に繋げている自治体に感謝です。

松代の魅力は城だけにあらず。城下に残る江戸時代の面影

松代城から歩いて5分くらいの場所に真田邸があります。

真田邸の前には松代藩主 真田信之像が鎮座。
関ヶ原の合戦では父の真田昌幸と弟の真田信繁(後の幸村)は西軍、真田信之は東軍として戦いました。
東軍が勝っても西軍が勝っても真田家が生き残る為の選択でした。
大坂の陣でも徳川軍についた真田軍は、豊臣軍の真田幸村と敵同士になります。

結果としては10万石の大名として、250年近く真田家はこの地で繁栄したので、戦国時代の選択は思惑通りだったことになります。

九代藩主・幸教が、義母・貞松院の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿が現存しています。
当時は「新御殿」と呼ばれていました。

後に隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。
1966(昭和41)年、十二代当主・幸治氏により代々の家宝と共に当時の松代町に譲渡されました。

真田邸は主屋、表門、土蔵7棟、庭園が江戸末期の御殿建築の様式が残っており、建築史の視点からも貴重な建物とされています。
松代城と一体のものとして国の史跡に指定されています。

鬼瓦には真田家の家紋 六文銭が刻まれています。

玄関口は間口や軒の天井が高く、さすが藩主の邸宅!と感じる格式の高さ。

藩主のプライベート空間となる「奥」と、対面や政務を行う場の「表」があります。
写真は表で来客の対面する場として使われていました。

庭園を楽しむ縁側。
軍事施設の城郭建築とは対照的に、古き良き日本の伝統的な文化を感じる御殿建築。
日本人の中に流れている、心落ち着くDNAが発動します。

朝イチの青天から一転して曇り空となり、かなり冷え込んできました。
風情を感じる美しい庭園。かなり広いです。

真田邸を見た後は真田邸の裏側に位置する「松代藩 文武学校」に向かいます。
左は真田邸の塀。

真田邸と道を挟んで向かい側に樋口家住宅があります。

松代城のすぐ東南に位置し、樋口家はその中でも中心的な位置にあり、藩の目付役なども務めた家柄です。
主屋、土蔵、長屋の3棟が長野市の文化財(建造物)に指定されています。
時間の都合上、今回は内部に入ることができませんでした。

樋口家住宅や松代藩校 文武学校があるあたりは、歴史的な建造物が密集しており、当時の面影が色濃く残ります。

城の正面口にあたる大御門(大手門)や新御殿(真田邸)に近いこの界隈は、上級武士が多く住む武家屋敷町でした。

松代藩 文武学校の交差点にあるのが旧白井家表門。
松代町内の表柴町(現在地の東南)にあった松代中級藩士・白井家の表門を、2000(平成12)年に現在の場所に移築復元されました。

1846(弘化3)年に建てられた三間一戸形式の長屋門で、20メートルもの広い間口、出窓、見張り窓など、門とは思えない大きさと造り。

長屋の一軒家にしか見えません。

旧白井家表門の向かい側には旧真田勘解由家住宅主屋があります。

旧真田勘解由家のある清須(きよす)町は、元和8年(1622)の真田家移封後に形成された武家町です。

異様なオーラを放つ薬医門は松代城 花の丸御殿から移築された城門です。移築前は茅葺だったそうです。

松代藩二代藩主真田信政の長男信就(1634寛永11年~1695元禄8年)は大名家に入るのを好まず、名を真田勘解由とし、末弟である幸道が三代藩主となりました。その後、信就は勘解由家の家督を長男の信方に譲り、弟幸道には子がなかったため、信就の六男信弘が四代を継ぎました。

そしてお目当ての松代藩 文武学校。
この交差点には見どころが密集しています。

真田邸・樋口家住宅・松代藩文武学校・真田宝物館の共通券がありますので、時間がある方は共通券の方がお得です。全て近距離にあるのがポイント。

入口の冠木門から入ります。
文武学校は松代藩8代藩主真田幸貫により発案。9代藩主真田幸教によって嘉永6年(1853)完成されたもので、安政2年(1855)に開校しました。

文武学校は文学所・教室2棟(東序・西序)・剣術所・柔術所・弓術所・槍術所・文庫蔵・番所・門などからなり、ほとんど開設当時そのままの構造と面影を残している貴重な遺構です。

まずは剣術所から見ていきます。
各地で藩校を見たことはありますが、剣術所は初めて見ました。

道場のような空間に、両サイドには畳が敷かれています。広く高さのある空間。

剣術所の天井組み。エグいほど横架材が重なり合って支え合っています。

文学所は文武学校の中でも一番大きな面積の建築物。

文学所内部。

畳の廊下は藩主専用とされていました。

暗くて見え辛いのですが弓術所にもサイドに畳が敷かれています。
その他、槍術所や砲術所なども見ることができます。

鬼瓦の真田六文銭も写真に納めます。いつの間にか再び晴れてきました。

真田宝物館の近くには小山田家の黒塗りの冠木門があります。横にある建築物は番所。
小山田家は藩主の真田家と縁戚関係にあり、代々家老職を務めていました。

番所は冠木門(後設のもの)の脇に設けられたもので、江戸期のものを現在地に移築されました。国登録有形文化財に指定されています。

その他にも真田宝物館に行きましたが、外観の写真は撮り忘れました。
大きな建物で、真田家の貴重な遺物がたくさん見ることができます。

関ヶ原の合戦の際に石田三成とのやり取りの書状など、かなり貴重な品々を見ることができます。

松代には他にも見る場所が多くあるのですが、半日では時間が全く足りず今回はこれで打ち切りとしました。
旧松代駅から長野駅までアルピコ交通の路線バスで移動。長野駅までは約30分程で到着できます。

長野駅前の「そば亭 油や」さんで遅めのランチ。
やはり長野に来たら蕎麦を食べないと後悔すると思い新幹線の時間まで休憩。
天丼のセット。最高でした。

続いて、新幹線で新潟に移動です。