【福島県】二本松城

2025年2月23日

仙台に行く道中、二本松城を攻略すことに!
二本松城は会津若松城、白河小峰城と並んで、福島県の日本100名城に選定されています。

歴史上では戊辰戦争時に壮絶な戦いをした、二本松藩の少年隊がとても有名です。
奥州管領の畠山氏から始まり、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏と有名な大名が納めてきた歴史もあります。

東京駅から東北新幹線で郡山駅まで行き、東北本線で二本松駅を目指します。

郡山駅のホームに向かうエスカレーターには会津の看板!
最後の会津藩主 松平容保公の写真もあります。会津武士道は今でも健在です。

郡山からは磐越西線で会津に行くことができます。

よく出来すぎたプロモーションにテンション上がらない城好きはいないでしょ!っとセルフツッコミを入れつつ、今回は北上して二本松へと向かいます。

郡山駅から二本松駅までは5駅、25分程度。

「丹羽十万石の城下町にふさわしく、二本松城を型どった駅舎」として、東北の駅百選に選定されています。
左の石垣は天守台で、駅舎は多聞櫓をイメージしているのかな?
街が一体となった城下町造りの取り組みに非常に感心しました。

駅のロータリーには少年隊の像があります。
城に直接足を運んで行くということは、その地域の歴史に触れること。
そうして、歴史は守り語り継がれていきます。

二本松市の取り組みは、観光のモデルケースだと思います。

歩いて二本松城を目指します。
駅前には奥州街道があり、駅から割とすぐの場所に大手門跡があります。
Googleマップで二本松城を検索して向かうと本城に誘導されますが、大手門から本城の麓までは1km程あるので注意です。

江戸城や大阪城のように、隙間なく美しく加工された切込接の石垣。
石垣の2段だけ残っています。

反対側は私有地のため入ることはできませんが、立派な算木積みは確認できました。
初代二本松藩主、丹羽長重から大手門を築造することは悲願でしたが、財政状況もあり1832年に幕府から許可を得て普請。
本格的な櫓門が完成しました。

しかし僅か35年後の戊辰戦争後に、門前の堀は埋められ大手門は取り壊されました。

現在地は大手門。
二本松城は山や地形など、幾つも取り込んで防衛ラインを築いた巨大な城郭でした。
大手門と本城がかなり離れているのは、町と地形と城が一体化していたからでした。

大手門跡の先は急な坂道になります。
両脇は民家が連なっており、安土城の大手道を彷彿とさせます。
民家には近世の石材を使われていますが、この辺りは石を使っている家が多いのが特徴。

私有地なので写真は控えたのですが、明らかに城の石垣だったと思われる矢穴の入った石材が、民家の花壇に使用されているのも発見。個人的には二本松市に根付いた石文化を感じました。

急な上り坂を登って、そのまま主郭へと続くのかと思いきや、今度は急な下り坂になります。
この辺りには久保丁門という城門がありました。
山の頂が人工的にV字にカットして大手門から続く道が貫通しています。
見た目は完全に堀切。主郭への道を通しているので切り通しになりますね。

石垣で有名な二本松城ですが、中世城郭の醍醐味、宝探しのようなワクワク感を味わいながら進みます。
二本松城の麓には情報館があるので、二本松城と二本松藩について改めて学び、パンフレットを持って登城開始です。

情報館を出ると二本松城の藩校だった敬学館の跡があります。
本来は文化観光施設が建設予定でしたが、絵図を元に発掘調査を行い、遺構が発掘されました。

大手門跡から続く山城テイストから一変して、情報館の前には三ノ丸下の巨大な石垣が出現!

高さ10mから13mの圧巻の石垣が三の丸を囲みます。加藤氏時代に積まれた石垣と確定しています。

高い石垣に土塀があるだけでも雰囲気がガラリと変わります。

石を切り出す際にできる打ち込みの証、矢穴も至る所で確認できます。

三ノ丸の左手の石垣には排水口らしき穴を見ることができます。

直下にある巨石は排水した水の受け材でしょうか。
元々この地にある岩盤をそのまま利用しているようにも思えます。

少年隊像と登城口。

詳しく書くと長くなるので割愛しますが、少年隊は13歳から17歳の少年を含んだ二本松藩の藩兵で、戊辰戦争時に戦場へと出兵します。
新政府軍の総攻撃に二本松城は陥落し、少年隊も多くの命が失われました。
会津藩の白虎隊と並んで、悲劇として現代でも語り継がれています。

12歳って小学6年生か中学1年生です。
少年が自国を守る為に戦う精神。武士道を感じると、ワタクシなんてまだまだ甘いと戒められます。

像があるあたりは、広大な広場と駐車場になっていますが、千人溜という藩兵が集まる場所とされていました。
戊辰戦争時は少年隊兵もここから出陣していきました。

二本松城は標高345mの平山城。
いよいよ枡形になっている麓の三ノ丸正面より入城です。とても絵になるショット!

高石垣と土塀によって囲まれた枡形は、異常なほど威圧感があります。
このショットだけで、至る場所&至る角度から狙われています。

右は二重櫓、正面は箕輪門、左は多聞櫓となります。
二重櫓は当時は存在していなく、模擬で建築されました。
古い絵図を見ると、箕輪門の櫓門形式の渡櫓が二重櫓の位置まで伸びているように見えます。

戊辰戦争時に新政府軍によって、箕輪門は焼き払われましたが、昭和に復元されました。

使用されている軒丸瓦や鬼瓦は丹羽氏の家紋。
江戸時代は初代藩主丹羽長重から幕末まで、10代に渡って丹羽氏が納めました。

箕輪門を抜けると石垣の枡形虎口を通過して三ノ丸下段に入ることができます。
この枡形虎口には建築物は建造されなかったようです。

上からのショット。

確かに建築物を築造するには、やや土台が細いようにも感じますが、土塀くらいはあったのでしょうか。
三ノ丸に続く重要な門なので、箕輪門から連続して折れ曲がる設計。
三ノ丸は城郭の平城の部分にあたり、御殿が並びました。

三ノ丸下段の狭間から見た、箕輪門前の枡形。
先ほど自分が通ってきた登城路ですが、守る側はこの視線で敵を狙っています。

本坂御殿跡と石垣。
スルーされてしまいそうな、三ノ丸の脇にある御殿跡。今は使われているのか不明な倉庫が建っています。

三ノ丸から主郭に向かう途中には、二本松藩士の自刃の石碑があります。
この他、二本松城には幾つもの悲しい歴史の足跡が残っています。

主郭に向かう道中には至る所に中世城郭の遺構らしきものが広がります。
空堀かなと思って撮った一枚は、畠山氏時代の虎口と推測されています。

日影の井戸は日本三大井戸の一つ。
深さは16mで、さらに岩盤を通して北に14mも伸びています。
中を覗いてみると、水が今だに溜まっていました。
※湧き出ているのかは不明。

本丸下南面大石垣。

二本松城における最も古い石垣の一つが、本丸下に残っています。
約13mの高石垣は、慶長初期に蒲生氏郷の時代に、全国各地で名城の石垣を積んだ穴太衆によって築かれました。
自然石で芸術的に積まれた野面積みの石垣。

この先は、いよいよ本丸です。
ぐるりと周り込んで、先が見えないようにしつつも、上から狙われているこの感覚は中世の山城らしさがあります。

本丸東櫓台の石垣。
石垣の折れ方が鋭角なのが特徴的。

本丸の石垣は崩壊して、原型を留めていない状態でした。
平成3年の発掘調査によって、本丸の形状と規模が判明し、学術調査と合わせて全面修築、復元を果たしました。

奥には天守台。
発掘調査で江戸初期の野面積みの石垣が発掘されましたが、隅部は後世に積み直されて算木積みだったそうです。

北側からのショット。
張り出している石垣は天守台。
右側に写っている石垣は、発掘調査で発見された野面積みの本丸石垣を、後世に残すために移築したもの。

本丸には枡形の喰違い虎口を通過します。

本丸のレベルから少し高く積まれた石垣は本丸東櫓台の頂部。
手前に見える石垣のさらに奥に、ちょこんと見える部分になります。

本丸東櫓台の上から見た喰違いの虎口。

本丸東櫓台から見た天守台。
本丸を囲む石垣の中で、天守台だけは少し外側へせり出しています。
多聞櫓で繋がっていたとされていますが、実際に天守が上がっていたかは、謎に包まれています。

天守台からの景色。
山頂は雲で隠れていますが、標高1700mの安達太良山を望むことができます。

天守台から見た本丸西櫓台方面。
こちらにも多聞櫓が繋がっていたと想定されています。
本丸の構造を見ても、個人的にはどこかの時代には天守があったのではないかと思っています。

本丸全体はこの様な感じ。
近世の軍事要塞としては、やや狭い曲輪のような気もします。

天守台から登城してきた道を見ると、現在は駐車場になっていますが、本丸下から飛び出すように円形の曲輪を見ることができます。
出丸のような役割を果たしそうな曲輪です。
こちらは乙森という曲輪で、東西27m・南北42m・四方150mを塀で囲んでおり、本丸東側を補完する重要な施設であったと考えられています。

本丸の北側、西側には中世の二本松城の遺構が残っているので、登ってきた逆側から一度下ります。

天守台下には蒲生氏時代の2段の石垣を見ることができます。
穴太衆の石垣を東北の地で見られるのは感動です。この時代にはまだ石垣の勾配が緩めなのも特徴。
土造りの城から石垣の城へと変化する過程で、石垣技術は数十年で飛躍的に進化を遂げます。

石垣造の城が少ない東方の地では、特に貴重な遺構です。

本丸の北側の茂みの中に入ると堀切のように尾根を分断した遺構がありました。

形状の美しい空堀が残っています。

土塁跡。この辺りは完全に中世の山城! 
空堀内部からは、あまり大きさを感じなかった土塁ですが、外側から見ると大きな土塁であることが分かります。
見事な石垣に目が行きがちですが、テイストの異なった山城の遺構も同時に見れるのが、二本松城の魅力の一つ!

L字型の空堀。

この辺りは畠山氏時代のものと思われる遺構が多く残っています。
室町時代に奥州管領に任ぜられた畠山氏は、二本松城を築城。
戦国時代の1585年、1586年に伊達政宗の攻撃により二本松城は開城され畠山氏は滅亡。
1591年に伊達家は米沢城から岩出山城に転封された為、二本松城は会津若松城の支城として蒲生氏郷の拠点となり改修が進められます。

まだまだ二本松城の石垣は終わりません。山城の遺構を堪能していると搦手門が出現。
中世城郭と近世城郭がMIXされた本当に面白い城です!

打込接の綺麗な石垣。複雑な形状をした門の石垣です。

この石垣の脇に高麗門形式の門が置かれていました。
当時の礎石が残っており、蒲生氏時代の冠木門と思われる掘立柱の門があり、加藤氏時代に礎石を用いて改修されました。
その際に搦手門の石垣も造ったと思われます。
この石垣の反対側にも石垣がありましたが、現在はほぼ原型が残らない状態です。

一度本丸に戻って、登ってきた道から下山します。

箕輪門の枡形を正面に見て左側は、死闘を繰り返した城郭のテイストから一変して、平和な江戸期らしさが残ります。
池が2段で連なっていて、上段が「るり池」。
初代二本松藩主、丹羽長重の造園の姿が残っています。

下段の池が、霞ヶ池。

るり池、霞ヶ池の間の道を進むと洗心亭があります。
二本松城内の茶亭。色々ありながらも元の今の位置に再移築された現存建築。
かや葺屋根が素晴らしい雰囲気を出しています。
るり池や霞ヶ池を見ながら、茶を楽しんでいたのでしょう。
洗う心と書いて洗心亭という名前も素敵です。

城という軍事施設の中での、穏やかな時間。
城主もこの場所で同じ空間を過ごしたと考えると、エモーショナルゾーンに突入したのでセルフタイマーで自撮り。笑

洗心亭の裏手から登ると本宮館跡があります。
尾根上に平場を築いて、建物が建築されていました。
畠山氏に仕えていた氏家新兵衛と遊佐丹波守の居館と推測されています。

本宮館跡には現在、丹羽霊神社があります。
お参りをして下山です。

帰りも同じルートで帰り、駅前の二本松神社脇の裏手に何やら石垣らしきものを発見。
下段は近世っぽいのですが、奥の竹藪にある石垣は城郭っぽい感じもします。
ここは大手門と同じライン上にあるので、可能性はあるのかなと。
山全体、町全体を城郭化しているので、二本松城は領域が広い為、見て周るのに3時間半は費やしました。
それでも全てを見ることができなかったので、次回の宿題です。

今年の5月は会津若松城に行く予定なので、福島の歴史に触れる良い機会でした。