名古屋城

Contents
見どころ
- 復元された本丸御殿
- 外観復元の大天守
- 三重櫓の西北隅櫓(清州櫓)を含めた現存櫓3基
- 扇の勾配の天守台
映えスポット
- 外堀対岸から見た西北隅櫓。天守クラスの三重櫓と水壕が映える
- 御深井丸側から見る大天守と扇の高石垣は圧巻
- 正門から入城御、左手に見える西南隅櫓と大天守
概要
名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋にある日本の城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
別名 | 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城 |
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城郭構造 | 梯郭式(または輪郭式)平城 |
天守構造 | 連結式層塔型5層5階地下1階 1612年築 (非現存) 1959年(SRC造・外観復元) |
築城主 | 徳川家康 |
築城年 | 慶長14年(1609年) |
主な改修者 | 名古屋城再建委員会 |
主な城主 | 尾張徳川家 |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
遺構 | 櫓、門、土塀、庭園、石垣、堀 |
指定文化財 | 国の重要文化財(櫓3棟、門3棟) |
再建造物 | 外観復元大小天守、外観復元正門、不明門、本丸御殿 |
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏築城の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城した。以降明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家17代の居城だった。
大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭では「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。
大小天守、本丸御殿の一部は昭和戦前期まで残存していたが、1945年の名古屋大空襲で大部分を焼失した(西南隅櫓など6棟は焼失を免れて現存している)。戦後に天守、門が鉄筋コンクリートで外観復元され、城跡は名城公園の南園として整備されている。
現在、名古屋城の全体整備計画があり、整備計画では史跡としての名古屋城の保存活用と価値を高めたいとしている。
2023年現在、計画されている整備計画では、天守閣の木造復元の整備、東北隅櫓の復元整備、本丸表一之門と本丸東一之門と本丸東ニ之門と二之丸の門、二の丸大手ニの門渡櫓の復元、馬出の復元、本丸多聞櫓の復元、二之丸庭園の保存整備と二之丸御殿及び向屋敷の復元整備、大手門・東門、埋御門と二之丸の櫓の復元整備、展示収蔵施設の整備、御園御門、清水御門、東御門の復元整備、石垣補修などである。
歴史・沿革
清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めた。
1610年(慶長15年)閏2月、未だ大坂城には豊臣秀頼が居る中、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始された。
石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた。
延べ558万人の工事役夫で8月末には天守台が完成し、9月頃には石垣を大方積み終え、遅い所も同年暮れまでには完成している。
そして大坂冬の陣後の1615年4月、義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀が行われ家康も駿河からそれに出席するが、その最中に豊臣方挙兵の報が入りそのまま大阪へ出陣し豊臣家を滅ぼしている。
清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、5万人を越える住民はもとより、社寺3社110か寺も移る徹底的なものである。こうして名古屋城の城下町は出来上がっていった。
また1615年に完成した本丸御殿だが、二の丸御殿が1617年に完成すると1620年に義直はそちらへ移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされた。そして1626年(寛永3年)に大御所徳川秀忠が、1634年(寛永11年)に、徳川家光が上洛の途中で立ち寄る。
特に家光の御成の際は本丸御殿が大々的に増改築される。だがその後長い間将軍の御成は無かったか、1865年(慶応元年)に、14代将軍徳川家茂が上洛の途中で本丸御殿に宿泊している。宿泊は1泊のみで入城の翌日には名古屋城を出発した。
近代
明治維新後の1870年(明治3年)、徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。
しかし、ドイツ公使マックス・フォン・ブラントと日本陸軍第四局長代理だった中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。
この時、天守は本丸御殿とともに保存された。
太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
現代
戦後、名古屋市の都市計画によって三之丸を除く城跡は北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。
園内は戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存され、一部の堀は埋め立てられるなど改変されたが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。
天守は地元商店街の尽力や全国から寄付をうけて1959年(昭和34年)に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
構造
本丸
本丸は北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。
ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。
大手馬出は三方を多聞櫓で構成している一方、搦手馬出は初期の計画では南と西を多門櫓が巡り、また北東に隅櫓台があるが、結局は塀すら無い未完の状態であった。現在大手馬出しの西面は埋められて平地になっており、搦手馬出は石垣の修復工事が行われている。
現状、門は表二之門(南二之門)のみが現存する。不明御門は埋門(うずみもん)形式であったが、戦災で焼失した。
隅櫓は総2層3階建てで、他城の天守に匹敵する規模である。外観は、それぞれで意匠を相違させた見栄えを重視した設計である。
南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)、南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)が現存し、北東の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は戦災で失われて櫓台のみ残る。多聞櫓は、濃尾地震ですべてが破損して取り壊されて現存しないが、奥行は5メートル強で、内部に武具類や非常食を収納するなど十分な防御能力があった。
天守
天守は本丸の北西隅に位置し、形式は大天守と小天守を橋台によって連結した連結式層塔型である。橋台には多門櫓は無く塀を巡らせ、軒先には槍の穂先を並べた剣壁であった。
天守は政治権力の象徴とされ、特に名古屋城の大天守の屋根にある金鯱(金のしゃちほこ)はその究極にあるものといわれている。
大天守は層塔型で5層5階、地下1階、天守台19.5メートル、建屋36.1メートル、合計55.6メートルで18階建ての高層建築に相当する。高さは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、江戸城、大阪城天守は江戸時代前期にいずれも焼失しており、江戸時代通期で現存した天守で名古屋城天守が最も高かった。
延べ床面積は4424.5m2で史上最大の規模である(各階平面の規模は、1階と2階が17間×15間、3階が13間×11間、4階が10間×8間、5階が8間×6間である)。
体積は姫路城天守の約2.5倍で、柱数・窓数・破風数・最上階規模・総高・防弾壁・防火区画など14項目で日本一である。内部は長辺が7尺の大京間畳が1759畳敷き詰められていたといわれる。
最上層の5階と4階以下の下層階とは構造が異なり、下層階は防御のため壁面を多くし、最上層の5階は窓が四面に可能な限り広く取られ砲弾戦に備えられていた。
天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城も免れた。1891年(明治24年)に発災した推定マグニチュード8.0の濃尾地震にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。
焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火した。
本丸御殿
城主(藩主)が居住する御殿だったが、1620年(元和6年)将軍上洛時の御成専用に改造された。以後、藩主は二之丸御殿に居住した。本丸御殿を使った将軍は秀忠、家光、家茂の3人で、上洛の途中に宿泊している。
御成御殿となった後の本丸御殿は、尾張藩士により警備と手入れが行われるのみで、名古屋城主である尾張藩主ですら本丸に立ち入るのは巡覧の時のみであった。
御成専用だけあって、格式の高さは当時の二条城本丸御殿に匹敵した。
御深井丸
御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西之丸とも狭い通路でつながっていた。
御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は4棟の隅櫓と全周に多聞櫓を建造する計画であったが、元和偃武により工事が中断した結果、2棟の櫓と多門櫓の一部以外は土塀が巡らされてそのまま江戸時代を過ごした(櫓台のみは築かれており、この部分は石垣が他のところよりも一段高くなっている)。
2棟の櫓は、北西隅に3層3階の西北隅櫓(戌亥隅櫓)と、北東西寄に2層2階の弓矢櫓であり、うち西北隅櫓が現存している。
西北隅櫓は三重櫓で、平面規模は桁行8間、梁間7間、高さは約16.3メートルある。その規模は宇和島城天守(高さ約15.7メートル、桁行6間、梁間6間)を上回り、3重5階の高知城天守(高さ約18.6メートル、桁行8間、梁間6間)とは高さでは及ばないものの平面規模では凌駕している。
名古屋城の金鯱
1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対(一つい)で慶長大判1940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。
しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、1730年(享保15年)・1827年(文政10年)・1846年(弘化3年)の3度にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。
遺構・文化財
第二次世界大戦前は、旧国宝24棟をはじめ、多数の建造物が城内に現存していたが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)5月14日8時20分頃、アメリカ陸軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守を含むほとんどを焼失した。
現在残る尾張藩時代の建物は、本丸辰巳隅櫓、本丸未申隅櫓、本丸南二之門、旧二之丸東鉄門二之門(現在本丸東二之門跡に移築)、二之丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓の6棟のみ。
すべて重要文化財である。現存する門3か所はもとは櫓門(一之門、内門)と高麗門(二之門、外門)の二重構えであったが、いずれも高麗門のみが現存する。
また、1952年(昭和27年)3月29日に城域内が国の特別史跡に指定され、1953年(昭和28年)に二之丸庭園が名勝に指定された。このほか、二之丸北側の石垣上に、「南蛮たたき」の工法で固められた土塀の遺構が現存している。
現存する有形文化財
重要文化財
以下4棟は1930年(昭和5年)、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定、1950年(昭和25年)文化財保護法施行にともない重要文化財となる。
- 西南隅櫓(本丸未申隅櫓)
- 東南隅櫓(本丸辰巳隅櫓)
- 西北隅櫓(御深井丸戌亥隅櫓)
- 表二之門(本丸南二之門)
以下2棟は1975年(昭和50年)、重要文化財に指定、所有者は財務省。
- 二之丸大手二之門(二之丸西鉄門二之門)
- 旧二之丸東二之門(二之丸東鉄門二之門) – 愛知県体育館建設に伴いいったん撤去され、本丸東二之門跡に移築
壁画・天井版。
- 旧本丸御殿障壁画 331面(附16面)(明細は後出)
- 旧本丸御殿天井板絵 331面(附369面)(明細は後出)
石垣石材産地
石垣石材として、トーナル岩(神原トーナル岩=幡豆石)、砂岩(河戸石)、黒雲母花崗岩(岩崎石、山陽帯)、花崗斑岩(熊野石)、斑レイ岩などが使用されている[116]。判明している産地は、三河湾周辺、岐阜県養老山地東麓、小牧市岩崎山、三重県熊野市周辺、瀬戸、本巣市船来山周辺とされている。ほかに、佐賀県唐津市、香川県小豆島産が使用された。