吉田城(続日本100名城)

吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。

戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後に吉田藩から豊橋藩に改名されたことに伴い豊橋城とも呼ばれた。

吉田城 見どころ

■橋を渡った、本丸 南多門の石垣と本丸を囲む深い空堀
■市役所側の櫓台石垣は約12~13mクラスの高石垣
■復元された鉄門と最頂部からの景色

名城スタンプと御城印販売

続日本100名城スタンプ
・鉄櫓内部に設置(開館時間が10:00~なので注意)

■御城印販売
・豊橋市役所内で購入

吉田城周辺の天気

別名吉祥郭、峯野城、歯雑城
城郭構造半輪郭式平城
天守構造なし
築城主牧野古白?
築城年永正2年(1505年)?
主な改修者池田輝政
主な城主牧野氏、戸田氏、小原氏、酒井氏、池田氏、竹谷松平氏、深溝松平氏、沼津水野氏、山形水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏、大河内松平氏、本庄松平氏、大河内松平氏
廃城年明治4年(1871年)
遺構石垣、土塁、堀
指定文化財吉田城址(豊橋市指定史跡)
再建造物模擬鉄櫓

写真で見る吉田城

吉田城 橋から見た南多門
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吉田城 橋から見た南多門
吉田城 本丸南多門跡
吉田城 武器庫からの鉄櫓
吉田城 腰曲輪石垣
吉田城 腰曲輪から見た豊川
吉田城 腰曲輪からの鉄櫓
吉田城 北多門跡
吉田城 北多門 上部撮影
吉田城 鉄櫓と吉田城最古の石垣
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レポート

概要

吉田城の前身は牧野古白によって1496年頃に築かれた今橋城です。その後、今橋の地名は吉田に改められました。

武将たちによる激しい争奪戦が繰り広げられたのち、松平(徳川)家康は酒井忠次を城代に置きました。1590年豊臣秀吉の命令で家康が関東に移ると池田照政(輝政)が吉田城主となり、城域の拡張や城下町の整備を行いました。

最盛期の吉田城は全国屈指の規模を誇り、歴代藩主には幕府の要職を務めるものが多くいたことから『出世城』とも呼ばれています。

石垣や土塁など多くの遺構が残っており、1954年に模擬復興された鉄櫓(くろがねやぐら)が吉田城の象徴としてかつての威容を誇っています。また城址の主要部分は2021年に豊橋市指定史跡となりました。

吉田城の歴史

戦国時代初期

永正2年(1505年)に宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村の入道ヶ淵に臨む岡に築城したとされる。築城目的は、西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平長親による東三河進出に備えるため、もしくは、その松平氏の縁戚としての友好関係を保持しながら渥美郡全域で勢いをつけていた戸田宗光を警戒するためのもの、と考えられている。

翌永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。今橋城から近い東方の二連木城(豊橋市仁連木町)や半島の田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が次々と入れ替わった。

享禄2年(1529年)、西三河から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)には清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。

天文15年(1546年)、牛窪城主の牧野保成の要請を請けて今川氏が戸田宣成を攻めて吉田城を陥落させ、これを管理下に置いた。今川氏が直接支配に乗り出したことで東三河における最重要戦略拠点となった。

今川氏の統治

今川義元は駿河から城代に伊藤左近・後に小原鎮実を派遣。支配力を強化する為、東三河の国衆にも城代を補佐させて統治協力を強いた。

その後、松平氏の弱体化によって新たに今川氏の統治下に組み込まれた岡崎城を後方から支える責務も負った。だが、永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いで討たれると支配力を低下、次第に歯止めが利かなくなる。永禄8年(1565年)には、今川氏を離反した松平家康によって攻略され、小原鎮実は退避。今川氏は三河支配権を喪失する。

戦国時代末期から

豊川を後背地とする背水の陣となるのを嫌ったのか、家康は本城として用いずに信任の厚い重臣の酒井忠次を城代に任命。並びに、南方の田原城の城代に本多広孝を配置。吉田城を中心とし戸田氏や牧野氏、西郷氏などの東三河4郡の諸豪族を統率させた。

永禄11年(1568年)末からの遠江侵攻では、掛川城を攻囲するまでの東三河衆は酒井忠次の指揮の下、家康本隊とは別行動であった。

遠江を併呑した当初、まだ本格的ではなかった武田氏との対戦が想定され、城の北方では設楽郡の長篠城・野田城が、東方では遠州の浜松城・二俣城・高天神城などが牙城となった。

その武田氏とは、元亀2年(1572年)より天正10年(1582年)に至るまで攻防戦を三・遠の両国で繰り広げるが、天正3年(1575年)の長篠の戦いまでは徳川氏が劣勢であった。特に元亀2年の春には設楽郡の防衛網を容易に突破した武田軍が南進。吉田城下にまで押し寄せられるが、頑強に守り抜いた。

その後も城代・酒井忠次を旗頭とする東三河国衆が武田氏による東三河・西遠江への侵略対応に心血を注いだ。

江戸時代

幕藩体制の下で吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。ただし、東海道の重要な防衛拠点の1つに挙げられていたため、江戸幕府の老中・大坂城代・京都所司代格など有能な譜代大名が城主に選ばれ出世城などと呼ばれていた。

竹谷松平家をはじめ、深溝松平家や水野氏、小笠原氏など3万から8万石の譜代大名のみに託されるが、国替えは頻繁であった。

最後に入ったのは、大河内松平家である。

歌川広重の『東海道五十三次』の中で、橋と城が同時に描かれているのは、吉田と岡崎だけである。吉田大橋は東海道では数少ない大きな橋で、川に面した城郭と橋を同時に描くことができる吉田城は、東海道でも屈指の景観として多くの絵師に描かれている。

近代

明治維新後、松平信古(後の子爵大河内信古)が明治2年(1869年)に版籍奉還したため、明治政府下の豊橋城(豊橋藩)となり、明治4年(1871年)、敷地は兵部省の管轄となった。明治6年(1873年)、失火により多くの建物が焼失した。

また、城趾内に名古屋鎮台の豊橋分営所が設置され、明治8年(1875年)には大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれた。

太平洋戦争後、三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され、本丸には1954年(昭和29年)に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建された。

隅櫓(鉄櫓)の中は簡易的な資料館となっている。その他、豊橋市美術博物館や、豊橋球場などのスポーツ施設、文化会館などが整備されている。また、豊橋市役所(豊橋市今橋町1番地)も三の丸に立地している。

吉田城の立地・構造

立地

吉田城は豊川が大きく蛇行した淵と支流の朝倉川が合流する場所に位置し、豊川左岸の河岸段丘のうちでも周囲より小高い場所で豊川とは約十メートルの段丘崖で接していることから、周囲を見渡すことができ豊川が自然堀の役割をはたす、自然の地形を利用した後堅固の平城である。

縄張

戦国時代

戦国時代の吉田城の構造は史料などが乏しくよくわかっていない。これまでの発掘調査の結果などから、今橋城と呼ばれていたころは最低でも東西300m南北240mで複数の曲輪で構成されていたと考えられる。

酒井氏の治政のころには新たな堀が作られ東西700m南北400mほどに拡大されていたと考えられる。このころの大手門は後の飽海口門付近にあったといわれている。

池田氏の治政のころは近世の構造に近いと考えられるが酒井期の堀等を踏襲しているところも有ると考えられる。

近世

本丸を中心に東方には金柑丸・南方西方には二の丸・北方には腰曲輪が置かれ、その周囲を三の丸、更に周囲を外郭(藩士屋敷)があり外周は総堀で囲われている、一般に半輪郭式と云われる形式に分類される縄張りである。

総堀の外周はで西1400m南北700mの規模で、東海道沿いの近世城郭の中では岡崎城に次ぐ規模である。

遺構

公園化された本丸から三の丸には石垣、土塁、堀が残る。

■2005年(平成17年) 復興櫓(鉄櫓)の建つ鉄櫓台の石垣補強の際に行われた測量の結果から、一部に積み直しの形跡が見られるものの従来の評価どおり池田期に築かれたとみられる。

■2017年(平成29年) 発掘調査により復興櫓(鉄櫓)下の野面積み石垣が、高さ約12.7mの規模で戦国時代の石垣では東海地方最大級のものであることが明らかになった。

静岡県湖西市鷲津の本興寺の奥書院(静岡県指定文化財)と山門(惣門)(湖西市指定文化財)は、吉田城の御殿と城門を移築したものと伝えられている。

動画で見る吉田城

マップ

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