小倉城【続日本100名城】
小倉城(こくらじょう)は、福岡県北九州市小倉北区にある日本の城。江戸時代には小倉藩の藩庁が置かれた。
別名として勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などがある。
続日本100名城で北九州市の観光スポットでシンボルとなっている。
Contents
名城スタンプと御城印
続日本100名城スタンプ
小倉城内の しろテラスにてスタンプを押印
御城印
小倉城内の しろテラスにて御城印を購入
小倉城周辺の天気
別名 | 勝山城、指月城 |
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城郭構造 | 輪郭式平城(海城) |
天守構造 | 連結式層塔型4重5階(1609年築 非現存) 連結式望楼型4重5階(1959年再 RC造復興) |
築城主 | 毛利氏、毛利勝信 |
築城年 | 永禄12年(1569年) |
主な改修者 | 細川氏、小笠原氏 |
主な城主 | 細川氏、小笠原氏 |
廃城年 | 慶応2年(1866年) |
遺構 | 石垣、堀、総構(含障子堀) |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 天守、模擬櫓、庭園 |
登城レポート

小倉城について
1569年(永禄12年)、中国地方の戦国大名毛利氏が城を築いたことから始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城した。
関ヶ原の戦いで徳川家康に与した細川忠興は、徳川政権下で豊前国へ加増転封となり、1602年(慶長7年)から約7年かけて唐造の天守閣を築城し、細川氏の肥後国熊本藩へ転封となった後、1632年(寛永9年)に譜代大名である小笠原忠真が入城し、以後幕末まで小笠原氏が居城した。
1837年(天保年)に失火のため天守閣が焼失し、残る城郭も1866年(慶応2年)、第二次長州征討で長州藩の反撃を受けた小倉藩が、混乱の中で自ら城を焼却した。
明治時代から第二次世界大戦中には、大日本帝国陸軍歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれた。戦後、1959年に天守閣が再建された。
歴史
- 1569年(永禄12年)、毛利氏らと結んで大友氏に対し反乱を起こしていた宝満・岩屋城督高橋鑑種が降伏した結果、小倉城に領地替えとなる。
- 1587年(天正15年)、高橋鑑種の養嗣子・高橋元種は豊臣軍の侵攻に小倉城を開城。豊臣秀吉の家臣であった森勝信が豊前国企救郡、田川郡の6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城する。
- 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの論功行賞で丹後国宮津18万石の領主であった細川忠興が豊前国1国と、豊後国速見郡、国東郡合せて39万9千石で入封。初め黒田氏の居城であった豊前国の中津城に入城するが、1602年から7年かけて毛利氏の居城であった小倉城を改築し居城した。
なお、この時に城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は主として侍町、東は町人や下級武士達の町とした。 - 1632年(寛永9年)、細川家が54万石で肥後国に移封後、播磨国明石から譜代大名の小笠原忠真が豊前国企救郡、田川郡、京都郡、中津郡、築城郡、上毛郡、計6郡15万石で入封。小倉城を居城とする。以後、幕末の慶応年間まで小笠原氏の居城となる。
- 1837年(天保8年)、本丸御殿、天守を焼失し、それ以後天守は再建されず。
- 1863年(文久3年)4月、海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川河口両岸に砲台(東浜台場・西浜台場)を建設。
- 1866年(慶応2年)、第二次長州征討で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避。家老以下の藩首脳は香春で指揮を執った。
- 1867年(慶応3年)、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、引き続き占領されたままとなったため、以後も藩庁は香春に置かれ、お茶屋(藩主巡察時の滞在施設)を中心に付近一帯の町人宅も多数借り上げて設置された(その後、1870年(明治2年)に京都郡豊津(現在のみやこ町)に藩庁を新設し移転)。
- 1875年(明治8年)、陸軍の歩兵第14連隊と、歩兵第14連隊を管轄する歩兵第12旅団本部が松の丸跡に置かれる。
- 1898年(明治31年)、陸軍第12師団司令部庁舎が本丸跡に建てられる(1925年(大正14年)久留米に移転)。
- 1934年(昭和9年)、八坂神社が鋳物師町より城内に遷座された。
- 1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリート構造で天守が外観復興された。内部は郷土資料館として利用された。
- 1990年(平成2年)、内部全面リニューアル、ジオラマ・からくりシアター等を導入し、体験型施設に変更された。
構造
本丸を中心に、南に松丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式平城であった。建物は、野面積みの石垣の上に大天守と平の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を配していた。
城下は、城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し城内に町を取り込んだ総構えを採っていた。
天守
細川忠興によって建てられた天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の入母屋破風以外に破風が無い簡素な外観を大きな特徴としていた。
最上階は、3間四方の御上段を取り囲むように東西に2間×5間と南北に1間×3間の縁側をめぐらせ、外側には戸板で覆った半間幅の内縁がせり出しており、「唐造り(南蛮造り)」と称された。この戸板は黒塗りで、下階の白漆喰塗籠とは対照的であったため、「黒段」と呼ばれていた。
『倉府見聞集』には、この唐造りの構造の由来が記載されている。当代一流の茶人であり文化人であった忠興の美意識が現れた個性的で独特な外観の天守は当時他に類を見ないものであり、視察が訪れるほどの評判を呼んだ。津山城天守と高松城天守は小倉城天守を参考にしたものと伝わる。
この天守は天保8年(1837年)に失火によって御殿とともに焼失し、残った天守台には「御三階」と呼ばれる建築を建て、天守の代用としていた。
現在見られる天守は『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに藤岡通夫の設計考証により鉄筋コンクリート構造によって復興されたもので、6千万円の費用を掛けて1959年(昭和34年)に完成した。
藤岡の当初案は資料考証に基づいたものであったものの、建設資金を捻出した地元商工会の「お城の恰好をよくするためには必要」という要望によって、大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などの破風が追加されてしまったため、外観は史実と大きく異なる。
このように昭和になってから新造された天守であるため文化財には指定されておらず、最上階の5階まで上水道が引かれるなど観光施設として運営されている。
海城としての小倉城
小倉城は海城であるが、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多い。豊臣政権時代に森氏が小倉城に入城した。
徳川氏政権初期段階には細川氏が入城したが、細川氏はこれまた海城である豊前中津城(大分県中津市)を同時使用している。細川氏がそれ以前に居城としていた丹後宮津城(京都府宮津市)も海城であり、細川氏の海城に対する執着が窺える。
マップ
写真で見る小倉城
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