岐阜城
岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の稲葉山(岐阜県岐阜市の金華山)にあった日本の城。
もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があるが、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられている。織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。
ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。
Contents
見どころ
■近世城郭に向けた築城技法の転換期を示す石垣
■標高329mの金華山からのロケーション
名城スタンプと御城印
日本100名城スタンプ
■岐阜城資料館(天守閣脇)
御城印販売
■金華山ロープウェー山麓売店
岐阜城周辺の天気
| 別名 | 美濃國井之口の山館、稲葉山城、金華山城、井口城、岐阜城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | 望楼型4重5階(1567年築・非現存) 独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再建) |
| 築城主 | 二階堂行政 |
| 築城年 | 1201年(建仁元年) |
| 主な改修者 | 織田信長 |
| 主な城主 | 斎藤氏、織田氏 |
| 廃城年 | 1600年(慶長5年) |
| 遺構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切 |
| 指定文化財 | 国指定の史跡 |
| 再建造物 | 天守、門 |
訪城レポート
概要
岐阜城は山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつも、それらの間を結ぶ登城路、さらに山中の要所に配された砦もあり、なにより山そのものが天然の要害として機能していた。
麓に置かれた城主の館は、山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあり、地形は斎藤氏 三代の頃に造られ、信長が大規模に改修し、大きな池の南北に建物が2つあり大きな庭園があったことが発掘調査で分かっている。
ルイス・フロイスが訪れた記録もあり、関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていたという。
当城の城主は、信長の後は、織田信忠、(信長亡き後に)織田信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信らであるが、秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で東軍側の池田輝政や福島正則らに攻められ落城、翌1601年(慶長6年)徳川家康によってに当城は廃城とされた。
近年の調査によりこの城の価値が見直されるようになり、2011年(平成23年)に岐阜城跡(ぎふじょうあと)つまり山頂の城の城跡および山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯の約209ヘクタール(2,091,602.74平方メートル)が国の史跡に指定された。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。
なお現在山頂にある建造物は、1956年(昭和31年)に鉄筋コンクリートで建てた模擬天守である。山麓付近では1984年ころから発掘調査が行われるようになり、現在も発掘が進行中である。
山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は、槻谷を流れる谷川の両側に段々地形が造られ、建物や庭園を配したものとなっている。又、岐阜市によれば山麓にあった庭園を復元する計画がある。
構造
織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡からうかがえる。
岐阜城は小牧城、安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。道三時代までは戦国期の典型的な詰城であったが、信長入城からは戦いの為の城でなく、基本的に城主の居住空間であり、威厳や権威を見せる城であったといわれている。
山麓に城主の居館があったとされる。現在の千畳敷を「信長居館跡」と呼んでいるが、信長は山頂に居住していた為、山麓の建物は政庁、もてなしの為のハレの間としての意味合いが強い。
京都へ進出する為に公家や商人をもてなすための迎賓館ともとれる豪華絢爛な建物があったとされ、巨石を用いた石垣や高石垣、多数の庭や池が発掘調査で発見されている。緑色片岩が庭の景石として発見されていることから、遠くから運ぶだけの力がある事を誇示する意味もある。料理も海の無い美濃では手に入れる事が出来ない海の幸が出されたと言われている。
天主・天守
信長・信忠時代の岐阜城
麓に天主(てんしゅ)と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は2m前後の巨石を立て並べた塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれる所にその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層の華麗なものであったという。
宮上茂隆の説によると、京都天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、2018年で発掘調査が一旦終了されている。
山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。一般的に言われる天守である。岐阜城に天守起源説がある。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失している。
なお「由緒ある建物だから失念しないうちに」と描かれた古絵図によれば、元々4層だったものを3層に改変された跡がある。この事から、元々4層4階、または4層5階だった可能性がある。
最近の発掘調査で、信長時代の物と思われる天守台の根石が北西部、南西部で発見された。
復興天守(初代)
1910年(明治43年)5月15日落成。木造・トタン葺き3層3階建て、高さ15.15mで、長良橋の古材を利用し岐阜市保勝会の手によって建てられた。
当時は、夜も常駐する職員が居た。日本初の城跡に常設された観光用模擬天守とされる。1943年(昭和18年)2月17日深夜、失火のため焼失した。「寒かったので焚火をしたら、城に燃え移った」と供述している。
復興天守(再建)
1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77m²、棟高17.7m。天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書、丸岡城など参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計、大日本土木が施工した。
再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県図書館に所蔵されている。ただし、建てられた天守閣は設計された物とは異なる。
移築現存門
妙照寺と法華寺にある山門は、岐阜城の移築門で、数少ない岐阜城の現存建築物である。
交通アクセス
JR東海道本線「岐阜駅」JR岐阜バスターミナルの11番、12番、13番乗り場および名鉄名古屋本線「名鉄岐阜駅」路外バス停の4番乗り場から岐阜バスN系統、行先番号「N32」〜「N86」の「岐阜公園・長良橋・高富方面」行き、または「市内ループ線(左回り)」で約15分。
「岐阜公園・歴史博物館前」下車、徒歩約3分で金華山ロープウェー「金華山麓駅」、金華山麓駅からロープウェーで「金華山頂駅」まで約3分、金華山頂駅から天守まで徒歩約8分。




