福山城

福山城(ふくやまじょう)は、広島県福山市丸之内1丁目にあった日本の城。城跡は国の史跡に指定されている。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれる。
日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定された。2018年7月30日には福山城跡の天守閣部分に対し、広島県内では初の事例となる景観重要建造物の指定がされた。
2020年から2022年にかけ、築城400年を記念した大規模な改修工事が行われた。
別名 | 久松城、葦陽城 |
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城郭構造 | 輪郭式平山城 |
天守構造 | 複合式層塔型5重5階地下1階(1622年、非現存) (1966年RC造復興) |
築城主 | 水野勝成 |
築城年 | 1622年 |
主な改修者 | 阿部氏 |
主な城主 | 水野氏、松平氏、阿部氏 |
廃城年 | 1874年 |
遺構 | 櫓・門・鐘楼、石垣 |
指定文化財 | 重要文化財(伏見櫓、筋鉄御門) 福山市指定重要文化財(鐘楼) |
再建造物 | 天守、月見櫓、御湯殿 |
概要
福山城は1615年(慶長20年)の一国一城令発布後の元和8年(1622年)に竣工した城である。大規模な新規築城による近世城郭では最後の例となった。備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であった。
形式は輪郭式の平山城だが、2重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持つために海城としても知られる。五重の天守と7基の三重櫓を有していた。
1873年(明治6年)の廃城令によって、大蔵省の所管となり、建物の払い下げ、取り壊しが実施されていたが、翌1874年(明治7年)に所在自治体の福山町などの請願によって、本丸の天守(付櫓を含む)・筋鉄御門・伏見櫓・御湯殿・鐘櫓の5棟の建築物が残されることとなった。その内鐘櫓を除く4棟について、国宝保存法の国宝に指定された。
天守以外のこれらの現存建築は、福山城の築城時に伏見城から移築されたものであったが、昭和20年(1945年)の福山大空襲によって、伏見櫓、筋鉄御門(ともに、国の重要文化財)を残して焼失している。
一方、本丸以外の城郭遺構については、昭和初期までに城北側にある堀をかねた吉津川以外のすべての堀が埋められ、三の丸は大半が市街地と化すなど遺構の破壊が進んだ。石垣も概ね本丸と二の丸の大部分と三の丸のごく一部に残る。
現在の天守(付櫓含む)、月見櫓、御湯殿は1966年(昭和41年)に鉄筋コンクリート構造で復興されたものである。
再建された天守内部は福山市立福山城博物館として利用され、天守最上階の回縁からは市街を360度見渡せ、晴れた日には瀬戸内海を望むこともできる。三の丸南側はJR福山駅が東西に貫き、新幹線や福塩線のホームからは、天守や伏見櫓が聳立する本丸跡を間近に望むことができる。
福山藩の成立と築城
福山城は江戸時代初期、元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である(厳密には赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後となる)。
元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の2国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、 徳川家康の従兄弟である水野勝成 が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。
築城は低湿地な場所での工事も多くあったため、元和6年(1620年)に芦田川の流れを城の北側にある吉津川に分流しようとする工事が大水害により中断されるなど、困難を極めたといわれる。城の用材には福山城の築城に伴い廃城となった神辺城はもとより、江戸幕府より下賜された伏見城の遺材も多く用いられた。
この時、伏見城から移築された建造物としては伏見櫓や月見櫓、御殿(伏見御殿)、御風呂屋(御湯殿)、鉄御門、追手御門、多聞櫓などがある。また、幕府から石垣奉行2名が派遣されている。そして、築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に福山城は完成する。
2重の付櫓が取り付く複合式の五重天守や三重櫓7基、二重櫓16基、総延長291間(約570メートル)の多聞櫓と、10万石の大名の城としてこの規模は特筆に値する。さらに築城後には幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど、天下普請に準じる扱いを受けており、福山城が西国街道と瀬戸内海の要衝を護る城として幕府に期待されていたことがうかがえる。
なお、築城時の縄張りは若干の改修はあったものの基本的に廃城まで維持されている。
水野時代の終焉
勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続いたが、元禄11年(1698年)5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となり、福山藩は一時的に天領とされる。
福山城の受け取りは伊予国今治藩松平定陳と安芸国三次藩浅野長澄によって、城の管理は讃岐国丸亀藩京極高或によって行われた。このとき領内全域で備前岡山藩による検地が行われ、福山藩の石高(表高)は10万石から5万石増の15万石と査定される。
元禄13年(1700年)、出羽国山形藩より松平忠雅が水野時代から5万石分の領地を削減された10万石で入封する。しかし、忠雅は10年後の宝永7年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。
その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と続くがそのほとんどが江戸住まいで福山に帰城することも希であった。また、阿部氏の時代は危機的な財政難が続いたこともあり、享保15年(1730年)には本丸御殿の奥向部分が江戸藩邸に移され、寛延3年(1750年)には二の丸下段の城米蔵が取り壊されるなど、必要性の薄まった施設は撤去されていった。
福山城での戦闘・幕末
慶応元年(1865年)、阿部家9代藩主阿部正方が第二次長州征伐参加のため石見国へ出兵することになり、その準備を行っていたところ、二の丸南側の櫛形櫓で火薬が爆発し隣接する鎗櫓、鉄砲櫓、番所が櫓内の武器と共に焼失した(これらの櫓が再建されることはなかった)。
この火災は閉門後であったため死者は番人1名に留まったが城下は大混乱に陥ったといわれる。その後、長州軍との戦いは完敗し、兵を引き揚げた福山藩は幕末の動乱を傍観していたが、第二次長州征伐から3年後の慶応4年(1868年)1月9日に西国における幕府側の重要な拠点であった福山城が初めての攻撃を受けることになった。
王政復古により新政府軍(長州軍)は徳川譜代である福山藩を朝敵と見なし備後国へ侵攻した。福山藩はこの直前に藩主阿部正方が急死し藩内の実権を勤皇派が握っていたことなどから、藩主の死を秘匿し当初から迎撃を諦めて福山城に篭った。
城下の手前まで進入した新政府軍はまず城の北西(現在の市内北本庄町)にある円照寺に陣取り福山城の北側から大砲による攻撃を開始する(焼失前の天守にはこのときの弾痕が残されていた)。その後、新政府軍は城内へと進攻し小丸山や松山から城に銃撃を浴びせるが、福山藩の反撃により新政府軍の藩兵3名が戦死した。
しかし、福山藩首脳らの奔走により新政府軍が本格的な攻撃を開始する前に福山藩は恭順を許されることになった。これにより城下は戦火から守られたが、後に福山藩兵は新政府軍の先兵として不遇の扱いを受けることになった。
正方は世継がないまま死去していたが、福山藩は幕末の混乱に乗じて安芸広島藩藩主浅野長勲の実弟阿部正桓を養子に迎えることでお家断絶を回避し版籍奉還を迎えた。なお、正方の遺体はこの戦いの直前に小丸山に仮埋葬されていたが、明治2年(1869年)に市内北本庄町の小坂山(現在の小坂山神社)に築かれた墓所へと移された。
明治維新 – 福山大空襲
明治維新後の廃藩置県により福山藩は福山県となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。
明治6年(1873年)の廃城令により廃城となり、ほとんどの施設は民間に払い下げられ、建物は建築資材として売却・解体され天守、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓、などを残すのみとなり、本丸を除いた敷地のほとんどが売却され宅地や農地などに転用された。
堀の大部分は、官有のレンコン畑として利用されていたが経営難となり、内堀は明治24年(1891年)に民間に売却され、昭和初期までに福山駅の拡張などにより完全に埋められた。
外堀も随時売却され、明治24年(1891年)までに山陽鉄道の線路敷設のため南部の東西が埋められ、東南部は大正3年(1914年)に両備軽便鉄道駅舎(両備福山駅)の建設により埋められた。
本丸は、明治7年(1874年)に歴史的記念物の破壊を惜しむ周辺自治体の誓願により下賜され、明治8年(1875年)に「福山公園」として整備されたが、傷みの進む天守の修復費用を確保できないことなどから、明治17年(1884年)に広島県へ返納された。
ところが、県は天守の修復どころか公園の維持費すら出し渋ったため、天守の破損は進み園内も荒廃した。これに対し地元有志は月見櫓跡に、貸席「葦陽館」を建設するなど活性化策を講じるがうまくいかず、見かねた福山町は県に公園の移譲を請願し、明治29年(1896年)に認可され、明治30年(1897年)に天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿の修理が行われた。
昭和になると福山城の文化的価値が再評価され、昭和6年(1931年)に天守が、昭和8年(1933年)には伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に、昭和11年(1936年)には本丸が史跡に指定された。二の丸の南側は大正4年(1915年)に所有者の植樹した桜が咲き乱れるようになり当地方随一の桜の名所として市民に親しまれた。
しかし、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月8日、米軍の空襲(福山大空襲)により天守、御湯殿、涼櫓など城下に残る多くの文化財と共に焼失した。
- 慶応4年(1868年) 福山城開城。
- 明治4年(1871年) 廃藩置県。
- 明治6年(1873年) 福山城廃城、施設の売却が始まる。
- 明治7年(1874年) 本丸が下賜される。
- 明治26年(1893年) 「福山招魂社」が城下から福山城内に遷座される。
- 明治29年(1896年) 福山公園が福山町に移管される。城内建物の大修理が行われる。
- 大正13年(1924年) 東外堀が埋め立てられる。
- 昭和6年(1931年) 福山城天守が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の重要文化財)に指定される。
- 昭和8年(1933年) 伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝保存法に基づき国宝に指定される。
- 昭和10年(1935年) 西外堀が埋め立てられる。鉄道拡張により二の丸南側が掘削される。
- 昭和11年(1936年) 本丸が国の史跡に指定される。
- 昭和20年(1945年) 天守・御湯殿等が焼失する。
- 昭和22年(1947年) 福山城跡で福山産業博覧会が開催される。
- 昭和25年(1950年) 戦災をまぬがれた伏見櫓、筋鉄御門が文化財保護法に基づき重要文化財に指定される。
- 昭和27年(1952年) 筋鉄御門の解体修理始まる。
- 昭和28年(1953年) 伏見櫓の解体修理始まる。
- 昭和39年(1964年) 本丸・二の丸が国の史跡に指定される。
- 昭和41年(1966年) 天守、月見櫓、御湯殿が復興される。
- 昭和47年(1972年) 西御門外枡形櫓台、北御門外桝形石塁が市の史跡に指定される。
- 昭和48年(1973年) 鏡櫓が復興される。小丸山が市の史跡に指定される。
- 昭和54年(1979年) 鐘櫓が復興され福山市の重要文化財に指定される。
- 昭和63年(1988年) 西外堀跡に「ふくやま美術館」が建設される。
- 平成元年(1989年) 三の丸跡西部に「広島県立歴史博物館」が建設される。
- 平成20年(2008年) 福山駅南口から御水門跡が発掘される。
- 令和4年(2022年)「令和の大普請」が完成し、福山城400年博の開幕祭が行われた。
天守
元和8年(1622年)竣工の実質5重5階地下1階(計6階)の層塔型で築城時は4重目の屋根を桧皮葺(あるいは柿葺き)とすることで裳階と見なし、名目上は4重5階で建てられたという説がある。ただし、江戸中期までに4重目も瓦葺きに改められ通常の5重天守と何ら変わらない姿となっている。
天守の南側は天守の2重目の屋根と一体化した2重の付庇が備わり、その東側には付庇に連続した2重櫓が付随している。山並みが迫り防備上の弱点となっていた北面は砲撃への対策とされる(異説もある)厚さ3mm程度の鉄板が最上層を除いた壁面全体に張られていた。
このため北側から見た天守は壁面が真っ黒なたたずまいであった。これは日本全国の天守にも類例がなく福山城天守で最大の特徴となっていたが再建された天守では再現されていなかった。
しかし2020年(令和2年)から2022年(令和4年)に行われた築城400年を記念した大改修で、古写真や他城の鉄板の調査、また往時の鉄板との比較検証などが行われ、往時の素材感などを再現しながら、安全性にも配慮した復された。
元的整備が実施され、全国唯一とされる天守北側の黒い鉄板張りが復元。また、天守最上階の窓形状、狭間なども外観復元された。
天守内部は全層で内側の柱(身屋部分)がすべて同じ位置に通されており、その周りを外壁面の柱が囲んで1層から5層まで1間ずつ逓減していた。この逓減率の低さも福山城天守の大きな特徴で、天守台の面積は9×8間と近隣の広島城(13×11間)や岡山城(13×9間)などと比べても半分程度であるにもかかわらず、最上階は逆に5×4間と広島城(3×3間)・岡山城(3×3間)より大きかった。
各層の破風は内部構造と無関係な装飾的なもので、その配置は徳川系の天守(江戸城、大坂城、二条城等)に準じていた。
このように、極めて規則的な構造を持ち“層塔型”の形式を体現するかのようにそびえ立つ福山城の天守は慶長期に発達した城郭建築技術の完成形といえるものである。
福山城天守は廃城後も破却を免れ昭和6年(1931年)には天主建築の最終完成形として高く評され現在も残る姫路城天主や松本城天主などと同時に国宝に指定される。
交通アクセス
- 山陽新幹線および山陽本線 福山駅から徒歩0分(福山駅は旧三の丸にある)
- 山陽自動車道 福山東I.Cより車で約20分(付近有料駐車場多数あり)
- 広島空港より福山駅前行リムジンバスにて約1時間半