五稜郭
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭。
予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁または亀田御役所土塁とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。
Contents
五稜郭周辺の天気
別名 | 亀田(御)役所土塁、柳野城 |
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城郭構造 | 稜堡式 |
天守構造 | なし |
築城主 | 江戸幕府 |
築城年 | 1866年 |
主な改修者 | なし |
主な城主 | なし |
廃城年 | 1869年 |
遺構 | 土塁、石垣、堀、兵糧庫 |
指定文化財 | 特別史跡 |
再建造物 | 奉行所、板庫、土蔵 |

五稜郭とは
五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となった。
明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。
現在残る星形の遺構から外側100~350メートルには、北と北西を除いて外郭の土塁がかつて存在したが、現在では国有保安林となっている箇所以外、面影は失われている。
国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社が管理している。
沿革
築造
1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。
箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂に置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内の箱館山に登れば奉行所を眼下に見下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面への移転が必要だと上申。
そして竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内からの艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中・阿部正弘に出した。
これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した。
併せて、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部はこれらを同時に築造するのは困難なので、まず弁天岬(弁天台場)と築島(着工されず)に着手するよう指示している。
1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。
武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された。
当初は工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。
1856年(安政3年)11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。
建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った。
当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画だったが、この地は地盤が脆弱で冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた。
1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した。
五稜郭の総工費は10万4090両(予算14万3千両)、その内訳は堀割・土塁・石垣などの土木工事に5万3144両(予算9万8千両)、建物の建築工事に4万4854両(予算2万5千両)、水道の敷設工事に6092両(予算2万両)というもので、これとは別に弁天台場が10万7277両(予算10万両)を費やして築かれた。
この大事業に最繁期で5〜6千人の人夫が使われたといわれ、箱館には人が満ちて街は大いに潤った。
箱館戦争
大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。
同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの、各地で敗北。
10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態だったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。
同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。
また、新政府軍は各所に陣地を築き、大砲を並べ砲撃した。猛烈な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、また五稜郭には堡塁がなかったため、石垣や堤を盾にして畳を敷き、屏風を立ててかろうじて攻撃を凌ぐ有様だった。
その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議を経て5月18日に榎本らが降伏、五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍に引き渡された。
奉行所復元
函館市では、1983年(昭和58年)頃から五稜郭の復元整備を目的とした資料調査を進めた。これと並行して郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い、奉行所等建物の遺構の残存状況が良好なことを確認し、1985年(昭和60年)から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始した。
1985年(昭和60年)から1989年(平成元年)、1993年(平成5年)から2000年(平成12年)、2001年(平成13年)、2005年(平成17年)と4度の発掘調査を行い、復元に向けて多数の基礎的資料を得ている。
この間、有識者で構成された「特別史跡五稜郭跡保存整備委員会」が、2000年(平成12年)に「箱館奉行所復元構想」を、2001年(平成13年)に「箱館奉行所復元計画(郭内土塁内エリア整備計画)」を策定し、箱館奉行所庁舎等の復元整備と活用・公開等についての計画を立案した。
その後、文化庁と復元に向けた協議を実施し、2006年(平成18年)に現状変更許可を得て着工した。2010年(平成22年)に復元工事が完成、7月29日に開館した。
構造
五稜郭は、水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。
現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートルであり、うち郭内は約12万平方メートルである。
外構
予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小された。当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の斜堤も4辺しか造られなかった。
土塁
堀を掘った土で土塁を築いた。本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は砲台として使用された。そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の斜堤が築かれた。
堀
総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた。総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4ないし5メートル、外周は約1.8キロメートル。
築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。しかし、第二次世界大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化、悪臭を放つようになったため、1974年(昭和49年)からは水道水を堀に流すようになった。
石垣
当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった。
函館山などから切り出された石材を使用したが、堀の石垣では資金不足のため赤川や亀田川の石を集めて代用した箇所がある(裏門橋側の一部に見られる)。
半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いている。
橋
現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた。
なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは太鼓橋が架けられていた。
建物
五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢など計26棟が建てられた。建材は津軽・南部・出羽など、瓦は能登・越後など、釘や畳は江戸というように各地から運ばれた資材が用いられた。
なお、建材は能代などで予め加工し、現場では組立だけとすることで、経費節減に努めていた。
奉行所
郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートル。一部2階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた。
また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた。
正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している。
奉行所の復元に際し、当初、函館市は奉行所の建物全体の復元を計画したが、建築基準法では1,000平方メートルごとに防火壁を設置しなければならず、復元と防火壁の両立を文化庁と協議した結果、景観上芳しくないこともあり断念し、約1,000平方メートル以内の復元に留めることとなった。
当時と同じ材料、同じ工法で、奉行所の南棟と中央棟部分が復元され、復元された奉行所は、平成23年度の北海道赤レンガ建築賞を受賞している。
兵糧庫
築造当時から唯一現存する建物である。明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され、一般開放後、1917年(大正6年)から片上楽天が私設の展示館「懐古館」を開き箱館戦争の資料を展示していたほか、市立博物館の科学教室としても使用されていたことがある。1972-1973年と2001-2002年に復元工事が行われ現在の姿となった。
板庫・土蔵
奉行所復元と同時に、兵糧庫の北側にあった市立博物館五稜郭分館を解体し、板庫(いたくら)と土蔵を復元している。板庫は売店および休憩所、土蔵は管理事務所に使用されている。
役宅
五稜郭の北側(現在の中道1丁目および本道1丁目)に、組頭以下同心までの役宅や長屋、数十軒が建設された。付近には郷宿や料理店も開業し街が形成されたが、箱館総攻撃の際に退却する旧幕府軍により焼き払われた。現在は住宅街となっている。
軍備
築造時点では大砲を設置していなかったとみられるが、旧幕府軍が五稜郭を占領した時には、二十四斤砲4門が配備されていた。
箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤加農砲9門、四斤施条クルップ砲13門、拇短クルップ砲10門を配備していた。但し降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は、長加農二十四斤砲9門、四斤施条砲3門、短忽微(ホーイッスル)砲2門、亜ホート忽微砲3門、十三拇(ドイム)臼砲16門であった。
アクセス
現地情報
所在地北海道函館市五稜郭町・本通1交通アクセス
- 函館市電2系統・5系統五稜郭公園前停留場 – 徒歩15分
- JR函館本線・道南いさりび鉄道の五稜郭駅からは2キロメートル程度
- 函館バス「五稜郭公園入口」「五稜郭公園裏」「五稜郭タワー前」停留所
- 函館タクシー(函館帝産バス)「五稜郭公園入口」停留所
- 北海道バス「五稜郭公園前」停留所
- 北海道道571号五稜郭公園線