大垣城【続日本100名城】
大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった日本の城(平城)。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。
宮川安定(安貞)が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない。宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったという。
戦国時代になると氏家直元が大規模な改修をして本格的な城郭としての整備された。伊藤祐盛が4重4階の天守閣を加え、石川氏によって総堀が加えられ、久松松平氏により天守が改修されている。慶安2年(1649年)、 戸田氏鉄の代の改築によって明治に至る姿となった。
関ケ原の戦いの際に石田三成らが入城して西軍の根拠地となった城としても有名な城である。
Contents
大垣城の見どころ

国宝だった天守は空襲によって終戦の17日前に焼失してしまいます。
天守は復元されて改修を重ねて当時の姿に近い形で今に残ります。
そして大垣城といえば2億5000万年前の化石入りの石垣が多く使われています。流し見をせず、よく観察してみてください。まるで博物館です。

大垣城は歴史的ターニングポイントの中心にあった城でした。
天下分け目の「関ヶ原の合戦」で西軍の石田三成が本拠とした城です。石田三成は1600年9月14日に大垣城から関ヶ原に向かい布陣、15日の未明に合戦が始まり決着がつきました。
この大垣城で何を考え、どんな未来を描き、決戦に備えたのでしょうか。それは大垣城だけが知っています。
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■続日本100名城スタンプ
大垣城天守内
時間:9:00~17:00(入館16:30まで) 火曜日休み
■御城印
大垣城天守内
大垣城 周辺の天気
| 別名 | 麋城、巨鹿城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 連郭輪郭複合式平城 |
| 天守構造 | 望楼型(1594年築) 複合式層塔型4重4階(1620年改) (RC造外観復元・1959年再) |
| 築城主 | 伝・宮川安定 |
| 築城年 | 伝・明応9年(1500年) |
| 主な改修者 | 氏家直元、伊藤祐盛 |
| 主な城主 | 竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、 岡部氏、久松松平氏、戸田氏 |
| 廃城年 | 明治4年(1871年) |
| 遺構 | 石垣、曲輪 |
| 指定文化財 | 大垣市指定史跡 |
| 再建造物 | 天守・乾櫓・艮櫓(外観復元)・門 |
写真で見る大垣城
登城レポート
大垣城の歴史
中世
明応9年(1500年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたとも、天文4年(1535年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされている。牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであった。
戦国時代には大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わった。天文13年(1544年)に織田信秀の攻撃により落城し、織田播磨守(※造酒丞ではない)が5年間城主を務めた。その後、天文18年(1549年)、斎藤氏に攻め落とされて配下の竹越尚光が城主となる。
永禄2年(1559年) に桑原直元(氏家直元)が城主となり、永禄6年(1563年)に城の大規模な拡張を行い、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。
近世
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後、この地域の支配権を獲得した羽柴秀吉によって池田恒興が城主とされた。所領は15万石とされる。池田氏以後、大垣城は近世城郭としての整備が進んだ。
翌年に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継いだが、さらに翌年に輝政は岐阜城主に転じた。同年中、輝政に代わって秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の家老の1人に任命された一柳直末が、大垣城に配されて3万石を領した。
天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正地震の被害に遭って大垣城は全壊焼失した。
慶長元年(1596年)頃、伊藤祐盛が城主時代の改築で天守が築かれたとされる。小田原の役で一柳直末が戦死したため、この戦いで功を挙げた伊藤盛景が城主とされ、盛景が死ぬと子の伊藤盛宗が跡を継いだ。
関ヶ原の戦いの際には、城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった。
その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯(三成の義弟)らが守将となって残ったが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りにより窮した福原は、やむなく西尾光教の仲介で降伏勧告を受け入れて落城した(大垣城の戦い)。
江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にした。
慶長18年(1613年)には石川忠総によって総堀が加えられ、さらに後に松平忠良が天守を改修した。『関ヶ原合戦図屏風』(津軽本)や『正保城絵図』には、現在の復元天守とは異なる3重天守が描かれている。
寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった。戸田氏の改修後は、並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。
本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。
近現代
明治6年に発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、昭和11年(1936年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし昭和20年7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。
天守は昭和34年に、乾櫓は昭和42年に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた。平成20年8月、市民検討委員会が大垣市に木造再建案を提言している。
平成23年2月22日、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了した。この工事で、戦後の再建時に改変された外観が、史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修された。
遺構
開発により多くの遺構は失われたが、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残る。
移築建造物としては、市内の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が残る。また、大野町西方の民家に、どこの門かは定かではないが城門が移築され現存する。
各務原市蘇原町野口の野口城に、伝加納城移築鉄門とされていた門が各務原市に譲渡され解体調査の結果、大垣城の鉄門であることが分かった。現在修理され各務原市鵜沼宿に展示されている。
MEMO
大垣城の石垣は金生山産の石灰岩が多く用いられており、白色をしているのが特徴。なんとその石には2億5000万年前の生物のウミユリやベレロフォンなどの化石を数多く見ることができます!
マップ
アクセス
■JR東海道本線・大垣駅(南口)から徒歩7分
■名神高速道路・大垣ICから15分
大垣城 周辺スポット
金生山明星輪寺

濃尾平野を一望する金生山の山頂にある真言宗の寺院。持統天皇の勅願により686年に役の小角によって創建されたと伝わる国指定重要文化財の「木造地蔵菩薩半跏像」や、県指定重要文化財の「木造金剛力士立像」など文化財も多く所蔵する。
大垣市郷土館

戸田公入城350年記念事業として昭和60年(1985)10月9日に開館。 歴代大垣藩主戸田公の顕彰を目的に、郷土大垣に関わる歴史的資料を展示している。戸田公関係資料、関ヶ原合戦絵図屏風(複製)、 大垣祭「朝鮮ヤマ」資料などを見ることができる。
大垣城 周辺宿泊施設

























