大坂城(日本100名城)

大坂城の原型は石山本願寺の拠点であったと考えられている。織田信長はこの地を制圧するために10年以上の歳月をかけた。信長が本能寺で討たれた後は豊臣秀吉が、この地に大坂城を築城した。

大坂夏の陣で廃墟同然となった豊臣大坂城は、1620年(元和6年)に徳川秀忠の命により天下普請によって10年の歳月をかけて再築され、天下の名城と称される巨大城郭に生まれ変わった。

豊臣時代の大坂城の跡に高さ数メートルの盛り土をして再建されたため、現在も地下深くに豊臣時代の石垣が埋まっていまる。現在ある天守は1931年(昭和6年)に復興されたものだが、櫓や門などは徳川大坂城のものが残っている。

夜間には天守がライトアップされるため、夜景の名所としても知られている。なお豊臣時代の天守が32年、徳川時代の天守が36年と、いずれも短期間に焼失したため、現在ある復興天守(大阪城天守閣)がもっとも長い天守である。

見どころ

■日本一の高さ32mを誇る、本丸東側の高石垣
■大手門、桜門、京橋門の桝形に積まれた超巨大な鏡石は別格
■各所に設けられた石狭間の数は規格外の多さ
■大手門の現存建築、多門櫓と千貫櫓で構成された桝形は日本トップクラスの防御力
■外堀南側の屏風折れの石垣は芸術的

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。

日本100名城スタンプ

■大阪城天守閣 1Fインフォメーション

御城印

■大阪城天守閣 1F売店

大坂城周辺の天気

別名錦城/金城
大坂城/大阪城
城郭構造輪郭式平城
天守構造複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階(1585年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1626年築)
いずれも非現存
独立式望楼型5重8階(1931年復興・SRC造)
築城主豊臣秀吉
築城年1583年(天正11年)
主な改修者徳川秀忠
主な城主豊臣氏、奥平氏、徳川氏
廃城年1868年(明治元年)
遺構櫓、門、石垣、堀
指定文化財国の重要文化財(櫓・門など)
特別史跡
登録文化財国の登録有形文化財(復興模擬天守)
再建造物復興天守

写真で見る大坂城

大坂城 南側屏風折れ石垣
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大坂城 南側屏風折れ石垣
大坂城 大手門と千貫櫓
大坂城 大手門
大坂城 大手門桝形巨石
大坂城 蛸石
大坂城 天守
大坂城 豊臣期石垣
大坂城 乾櫓
大坂城 本丸東石垣
大坂城 ライトアップ
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レポート

歴史・沿革

前史

上町台地の先端であるこの地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると渡辺津から京都に繋がる交通の要衝でもあった。

戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失した。この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると織田信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であった。

本能寺の変の発生後、大坂にいた信澄は、織田信孝、長秀らに討たれた。1582年(天正10年)6月の山崎の戦い後は、池田恒興が大坂に入った。1583年(天正11年)3月の賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉が勝利を収めた後、同年6月、恒興を美濃国へ移し、秀吉が大坂を得ることになった。

安土桃山時代

1583年(天正11年)から羽柴(豊臣)秀吉によって築城が開始され、羽柴家(豊臣氏)の本拠地となった。

同年、秀吉は、加藤清正、片桐且元、細川忠興を採石奉行として小豆島へ派遣した。

豊臣大坂城普請は四期に区分され、第一期(天正11年から13年)に本丸を、第二期(天正14年から16年)に二の丸を、第三期(文禄3年(1594年)から5年)に総構(三の丸)を、第四期(慶長3年(1598年))に馬出曲輪と大名屋敷を整備した。

文禄・慶長の役間の文禄5年(1596年)に行われた和議交渉に際して、明使饗応のため本丸御殿は大改修が行わた。本丸南の表御殿には「千畳敷」と称される大規模な殿舎が、またこれまで別個の御殿だった表御殿と詰の丸の奥御殿を繋ぐ「千畳敷の大廊下」も建てられた。「千畳敷」「千畳敷の大廊下」も大坂の陣まで残り、『大坂冬の陣図屏風』『大坂夏の陣図屏風』双方に描かれている。

一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されるが、実際には1585年(天正13年)には秀吉は関白に任ぜられ、翌1586年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して1587年(天正15年)の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して死ぬまで伏見において政務を執った。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。

江戸時代

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍が敗れた結果、徳川家康によって東軍への恩賞という形でその所領が分配されたため、220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏であったが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。

しかし、1615年大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。

落城後の大坂城は、初め家康の外孫・松平忠明に与えられた(10万石)(大坂藩)。忠明に課せられた任務は大坂の町の復興であり、城そのものにはあまり手が加えられることはなかった。1619年(元和5年)7月、忠明は大和国郡山藩12万石へ移封となり、大坂は幕府直轄領となる。

翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始された。大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で58大名を動員して本丸一帯を、1628年(寛永5年)からの第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部、と実に3期足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成した。

幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、近畿地方、および西日本支配の拠点となった。

本来の城主である将軍は家光、家茂、慶喜の3名のみ大坂城に入城している。このうち在城期間が最も長いのは家茂で、大坂城にて生涯を閉じた唯一人の将軍である。

江戸時代には三度の落雷による損傷と修復を繰り返した。一度目は1660年7月25日、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失した。

爆発の威力はすさまじく、天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡、家屋1481戸が倒壊し、多数の家屋の屋根が破損した。また、青屋門の扉が城から約14km離れた暗峠まで飛ばされたとの記録もある。後に幕府は現存する石造りの焔硝蔵を建造した。

二度目は1665年(寛文5年)正月2日で落雷を天守北側の鯱に受けて天守を焼失した。天守は39年と短命だったが、本丸の三重櫓11基は以降200余年にわたり残存した。三度目は1783年(天明3年)10月11日で、大手多聞櫓に落雷が直撃し全焼。幕府の財政難のため再建は1845年(弘化2年)からの町人御用金による総修復まで待つこととなった。

江戸末期、慶応3年12月9日に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日に始まった鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の敗北が濃厚になると、同年1月6日の夜、慶喜は大坂城を脱出し江戸へ退却した。

翌1月7日には徳川慶喜征討大号令が発せられ、大坂城内に群衆が乱入。そして、新政府軍への大坂城の引き渡しが行われた1月9日、本丸御殿の台所より出火し、本丸御殿・本丸の三重櫓11基・桜門・姫門など本丸のすべての門、山里曲輪の東菱櫓・西片菱櫓・山里門・極楽橋、二の丸の四番櫓・五番櫓・七番櫓・太鼓櫓・艮櫓・巽櫓・玉造門など城内の建造物のほとんどを焼失した。

構造

台地北端を立地とする大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸から見て低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。

大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が修築した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張は全て、江戸時代のものである。

天守

大坂城の天守は天正・寛永・昭和とこれまでに3度造営されている。いずれも外観は異なるが、復興天守は徳川大坂城の天守台を利用している。詳細は以下の通りである。

豊臣大坂城天守

1585年(天正13年)竣工、1615年(元和元年)落城の際に焼失。天守台・鯱を含む高さは詰の丸地表から約40メートル(現本丸地表から約39メートル)。

豊臣大坂城のものと見られている平面図『本丸図』では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。豊臣大坂城の天守は天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。

天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階で、1階の規模は南北11間✕東西12間(柱間:7尺間)あったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。

徳川大坂城天守

1626年(寛永3年)竣工、1665年(寛文5年)落雷により焼失。天守台・鯱を含む高さは58.3メートル。

徳川大坂城の天守は江戸城の本丸・初代慶長度天守の配置関係と同様の配置で建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、踊り場のような状態だった。

天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。

建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、慶長度江戸城天守を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面だったとみられている。屋根は慶長度江戸城天守が鉛瓦葺なのに対して、創建当初の名古屋城天守と同様に最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺だったという。

江戸城天守や名古屋城天守と比較すると、1階規模は江戸城の18間✕16間よりも1間小さくこれは名古屋城も同様である。一方で5階の規模は何れも8間✕6間だが、1・2階が同規模故に逓減率が小さい名古屋城が7尺間なのに対して、順に逓減する大坂城は先述のように柱間を小さくして実現している。

復興天守

1931年(昭和6年)11月7日竣工。天守台・鯱を含む高さは54.8メートル。

現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、博物館も兼ねた大阪城天守閣である。

市民の寄付金により1931年(昭和6年)11月7日に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到したため、およそ半年で目標額の150万円(建設資金としては現在(2021年時点)のおよそ12、3億円に相当)が集まった。

昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。

建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法を用いて建てた。5層8階(入口のある1階部分は地下)からなっており、復興天守の中は博物館「大阪城天守閣」となっている。

30年で焼失した豊臣大坂城天守、39年で焼失した徳川大坂城天守に比べて、復興天守は最も長命の天守となっており、1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録された。

遺構

現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などの建物遺構が残っており、国の重要文化財に指定されている。

また、桜門の高麗門については、明治20年(1887年)に日本陸軍大阪鎮台によって再建されたものであり、国の重要文化財に指定されている。

また、現存する石垣も多くが当時の遺構である。

文化財

重要文化財 大阪城 13棟

■大手門 – 寛永5年(1628年)創建、嘉永元年(1848年)修復
■塀 3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)
■多聞櫓(渡櫓、続櫓) – 嘉永元年(1848年)
■千貫櫓 – 元和6年(1620年)
■乾櫓 – 元和6年(1620年)
■一番櫓 – 寛永5年(1628年)
■六番櫓 – 寛永5年(1628年)
■焔硝蔵 – 貞享2年(1685年)
■金蔵 – 江戸時代(寛永2年(1625年)創建)
■金明水井戸屋形 – 寛永3年(1626年)
■桜門 – 明治20年(1887年)

マップ

アクセス

■JR大阪環状線・大阪城公園駅
■JR東西線・大阪城北詰駅
■大阪市営地下鉄/京阪電鉄・天満橋駅
■大阪市営地下鉄・谷町四丁目駅、大阪ビジネスパーク駅
■大阪市営地下鉄/JR西日本・森ノ宮駅
■大阪市営バス・大阪駅、上本町六丁目、あべの橋(天王寺駅)から101・102号系統「大手前」もしくは「馬場町」停留所

■阪神高速13号東大阪線・法円坂ICまたは森之宮IC

大坂城周辺のスポット

茶臼山陣城

標高26mの小高い丘で現在は天王寺公園の一部となっている。

大坂冬の陣では徳川家康が本陣を置き、大坂夏の陣では真田信繁が陣を置いたとされる場所。

激戦が繰り広げられた。

大阪府大阪市天王寺区茶臼山町

→マップ

安居神社

大坂夏の陣で徳川軍の本陣を攻めて、徳川家康を最後まで追い詰めた戦国最後のヒーロー真田信繁。疲れ果てた信繁は、最後はこの安居神社の境内で戦死したと伝わる。

 大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24

→マップ

三光神社

大坂冬の陣で豊臣方についた真田信繁は、真田山付近に出丸となる真田丸を築造。真田信繁が大坂城から現在の三光神社までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に穴が残っている。

 大阪府大阪市天王寺区玉造本町14−90

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大坂城 周辺宿泊施設

大阪市 老舗グルメ