鉢形城

鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にあった戦国時代の日本の城。
構造は連郭式平山城。標高は最高点(三の曲輪)で122m。
深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。

城郭構造連郭式平山城
天守構造なし
築城主長尾景春
築城年1476年(文明8年)
主な改修者田丸直昌、森忠政
主な城主長尾景春、上杉顕定、北条氏邦
廃城年1590年(天正18年)
遺構土塁、堀、土橋、石垣
指定文化財国の史跡

歴史・沿革

  • 1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。
    長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。
    長尾景春はこれに怒り、1476年(文明8年)、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。これが鉢形城の始まりである。
  • 1478年(文明10年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。
  • 1488年(長享2年) 扇谷の上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻めるため兵をおこし、城の近くで両軍が遭遇して高見原の戦いが起こった。このとき、定正は戦闘には勝利したものの鉢形城は落とすことができず撤退した。
  • 1494年(明応3年) 上杉定正は再度鉢形城の顕定を攻めようと伊勢盛時(北条早雲)とともに高見原に打って出たが、定正はこのとき荒川渡河中に落馬して死去した。以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。
  • 1512年(永正9年) 上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は落城、顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失った。
  • 1515年(永正12年) 憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。
    しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏2代北条氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたる抗争のなか、1525年(大永5年)3月に病没した。後を養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が継いだ。
  • 1546年(天文15年) 北条氏3代北条氏康が川越城を包囲した上杉朝定・上杉憲政を打ち破る河越夜戦が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。
  • 1564年(永禄7年)この地方の豪族であった藤田康邦に入婿した、北条氏康の四男北条氏邦が鉢形城へ入城した[7]。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となった。その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、1569年(永禄12年)には武田信玄による攻撃を受け、1574年(天正2年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
  • 1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸、徳川家康家臣の浅野長政、本多忠勝、島田利正、鳥居元忠 らの連合軍 (35000) に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城した。
    その後、徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。

現代

2006年(平成18年)4月6日 日本100名城(18番)に選定された。
1932年(昭和7年)4月19日 遺構の残存状況がきわめて良好な考古資料であり、関東地方の戦国時代の状況を示す文献資料も豊富に残されていることから、「鉢形城跡」として国の史跡に指定された。

交通アクセス

鉄道・バス

  • 東武東上線・秩父鉄道秩父線・JR八高線寄居駅下車。
    • 徒歩約25分。または、イーグルバス(元東秩父村営バス)「和紙の里」行きで「鉢形城歴史館前」下車、徒歩約5分

自動車

  • 関越自動車道花園ICから国道140号バイパスで秩父・長瀞方面へ約6km、15分
  • 無料駐車場有。

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