小谷城

見どころ
- 黒金門跡
- 本丸石垣
- 大堀切
- 山王丸の大石垣
- 清水谷の土佐屋敷の石垣
概要
小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市(旧東浅井郡湖北町伊部、かつての近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の城(山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
別名 | 小谷城 |
---|---|
城郭構造 | 梯郭式山城 |
天守構造 | 二重三階天守(非現存) |
築城主 | 浅井亮政 |
築城年 | 1516年(永正13年)? |
主な改修者 | 浅井氏 |
主な城主 | 浅井氏、羽柴秀吉 |
廃城年 | 1575年(天正3年) |
遺構 | 曲輪、堀切、土塁,石垣、縦堀、礎石、虎口 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | なし |
歴史・沿革
築城
「1516年(永正13年)9月28日に着工同年10月20日に完成」という記述がある。しかし、浅井三代記の記述には疑問点も多く、その後の1525年(大永5年)、六角定頼が江北に侵攻した際、浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから、その1,2年前の1523年(大永3年) – 1524年(大永4年)築城説が有力である。
この2説以外にも諸説あるが、いずれにせよ大永5年迄に築城されていたと思われる。その後1538年(天文7年)にも六角定頼が攻め込んだが、この時も浅井亮政は小谷城を退城し美濃国に逃亡した。
織田との攻防
亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られる。元亀元年(1570年)6月の小谷城から南に5キロほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突。
織田軍が勝利したものの、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川南岸にあった浅井氏の支城横山城を攻略し、有力武将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する前線基地とした。
1573年(天正元年)8月8日、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉)の調略に乗って織田方に寝返った。この城が手に入ったことで織田方は小谷城の包囲が可能になり、信長はその日の夜半に岐阜城を進発し、10日には越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功した。
このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣した。この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏した。
焼尾は小谷城と峰続きである大嶽の砦の北麓にあるため、信長は小谷城攻略の意思をさらに固めた。
8月12日、畿内一帯に嵐が襲来した(京都などでも被害の記録がある)。この嵐を好機と見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた(刀根坂の戦い)。
信長は嫡男・織田信忠の手勢などを押さえに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。
翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功した。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。
さらに本丸も落ち、9月1日、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡した。

天下統一を目指す織田信長との激闘を繰り広げた城なので、歴史的観点から見ても貴重な史跡です。
廃城
その後、浅井氏の旧領のうち伊香郡・浅井郡・坂田郡は羽柴秀吉に与えられるが、秀吉は琵琶湖から離れた小谷城を嫌い、1575年(天正3年)に北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城とした(長浜城)。
そのため小谷城は廃城となり、現代に至っている。
1937年(昭和12年)4月17日、国の史跡に指定された。
城郭
小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられている。
落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったが、山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察される。
主郭部
城は多くの郭によって構成されており、本丸とその奥に続く中丸との間には深さ5〜10メートルほどの堀切があり主として南北2つの部分に分けることができる。これらの郭を守る形で武家屋敷跡が点在し、清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されていた。
本丸・大堀切
本丸曲輪は江戸時代中期の小谷城古絵図には「鐘丸共」と記載されているので、鐘丸として機能していたと思われている。
南北40m×東西25mの規模があり、上下二段から成り立っている。また東西の裾には土塁があり、本丸下の千畳敷曲輪方向には石垣が築かれている。この本丸跡に『戦国大攻城戦』では二層天守が築かれていた可能性を指摘している。
他に、小谷城の天守が長浜城に、次いで彦根城の西の丸三重櫓として移築されたとの伝承があるが、1955年(昭和30年)の解体修理ではそのような形跡は発見されなかった。
これは、1853年(嘉永6年)に8割近くが大修理を施されたため、築城当時の建築物が失われている可能性も指摘されている。また、この北側には深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大規模な堀跡がある。ここから上部と下部を明確に分断している。
『戦国の堅城』によると、上部の曲輪はこの堀切があることで、下部の曲輪で食い止め強固に守られる反面、上部から下部へ、下部から上部への戦力の柔軟な運用を難しくしている点が指摘されている。
京極丸・小丸・山王丸
堀切より北側には、中丸、京極丸、小丸、山王丸と続いている。中丸は大堀切の北側にあり、三段からなる階段曲輪で、それぞれの段で横矢を築いている。
京極丸の北側に小丸がある。この場所は浅井久政が切腹し果てた場所で、左右2段の曲輪からなる。
主郭部の最も北側にあるのが山王丸である。山王丸は神社が祀っていたと考えられ、現在は名称が小谷神社にかわり小谷寺の一角へ移っている。
4段から成り、詰めの曲輪でもある。また、山王丸の東側には高さ5mからなる大石垣があり、また各曲輪の虎口にも石垣が確認できる。『戦国の堅城』ではこれらの石垣は浅井氏の権力の象徴となっていた可能性を指摘している。
石垣は鉄砲が伝来すると共に急速に広がっていくが、まだ戦国時代末期では国人の私的権力では構築が困難で、寺社に属する石工集団を動員する必要がある。近江国では六角氏のような守護に近い権力が必要であった。
そこで浅井氏は自らの権力を配下の国人衆や、浅井氏の湖北での正当性や優位性を見せつける必要があり、石垣が築かれることによって浅井氏も国人から戦国大名になったのではないかと指摘している。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線「河毛駅」
- 貸自転車
- 河毛駅コミュニティハウスで貸出
- 徒歩でのアクセス
- 河毛駅より徒歩約25分程度で登山口、登山口から本丸曲輪部分へは徒歩約25分 (道は岩が多く歩きづらい。)