佐和山城

見どころ
- 山頂の本丸からは彦根城・琵琶湖を一望できる
御城印
彦根駅にある観光案内所で購入
概要
佐和山城(さわやまじょう)は、近江国坂田郡(滋賀県彦根市)の佐和山にあった中世中期から近世初期にかけての日本の城(山城)。現・佐和山城址。
坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる。
城郭構造 | 連郭式山城 |
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天守構造 | 五層(三層説あり。1595年築・非現存) |
築城主 | 伝・佐保氏 |
築城年 | 鎌倉時代 |
主な改修者 | 石田三成 |
主な城主 | 佐保氏、小川氏、磯野氏 丹羽氏、石田氏、井伊氏 |
廃城年 | 慶長11年(1606年) |
遺構 | 石垣、土塁、堀、曲輪、ほか |
指定文化財 | 未指定 |
佐々木・六角・浅井・織田の時代
佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見える。
戦国時代の後半に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。
羽柴・豊臣の時代
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。
これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。この頃には約10キロ南西にあたる至近の安土城が廃城となった。
さらに石田三成が入城したとされる。三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。
ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている。

佐和山城といえば豊臣秀吉に忠義を示し続けた石田三成。
佐和山城は野生の猿もいるので注意!
佐和山城の戦い
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。
城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。
家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している。
徳川時代、そして、廃城
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家がこのまま佐和山城を利用すると領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに佐和山城から直線距離で1.6キロほど西と至近の地に新たな彦根城築城を計画した。
しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。
佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、千貫井戸跡や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡などの施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。
構造
山城として、山上には本丸を中心として西ノ丸・二ノ丸・三ノ丸があり、また隣接する尾根に太鼓丸・法華丸の2つの曲輪がある。東山道に接する大手方面には、谷戸を塞ぐ形で内堀で区画された侍屋敷地が二箇所あり、更にその外側に城下町と外堀がある。
琵琶湖に接する搦手口にも城下町があり、湖には百間橋が架かっていた。
佐和山城は井伊家が彦根城に移る際に徹底的な破城を受けており、特に本丸の天守台では9間(15メートル前後)を切り落としたと伝えられている。
本丸自体も岩盤が露出するまで破壊され、石垣も殆ど撤去された。なお、徹底的に破壊された本丸を除き、他の山上曲輪は実際には複数の曲輪で構成された。
現在、本丸跡のある山頂には三等三角点「石ヶ崎」が設置されており、標高は232.57mである。