駿府城

Contents
見どころ
- 復元された東御門と多門櫓で形成する桝形
- 当時の形を残す中堀
- いくつかの時期で改修されたことで積み方が異なる、中堀の石垣
- 発掘調査中の天守台
映えスポット
- 東御門と桝形空間
- 巽櫓と県庁のコラボレーション

概要
駿府城(すんぷじょう)は、静岡県静岡市葵区にあった日本の城。現在城址公園として整備されている。
別名は、府中城、駿河府中城、静岡城など。江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。
江戸初期には大御所政治(駿府政権)の中心地となった。
現在では、本丸と二の丸の城跡が都市公園「駿府城公園」として整備されている。
別名 | 府中城、駿河府中城、静岡城 |
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城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 天正期:連結式 (1589年築) 慶長1期(1607年再) 慶長2期:連立式層塔型5重7階(1610年再) (いずれも非現存) |
築城主 | 徳川家康 |
築城年 | 1585年(天正13年) |
主な改修者 | 徳川家康 |
主な城主 | 徳川氏、中村氏、 内藤氏(松平氏) |
廃城年 | 1869年(明治2年) |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 巽櫓、東御門、坤櫓 |
今川館時代
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。
永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失。
ただし、今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無く、むしろ1982年に行われた駿府城の二ノ丸跡の発掘調査によって見つかった戦国時代の遺構はその規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられたことなどから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったとする推測が強くなっているが、具体的な位置については現時点では不明である。
安土桃山時代
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。
天正13年(1585年)から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。この時に初めて天守が築造されたという。そして翌天正14年(1586年)に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った。
その後天正18年(1590年)、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城。一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去する前、徳川方の東軍につくことを決め、戦いの後に嫡子の中村一忠が伯耆に転封されたため、駿府は内藤信成が治めた。
江戸時代
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府に隠居した(それにより駿府藩は一時的に廃藩となった)。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。
このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。1607年(慶長12年)に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失したが、その後直ちに再建工事が開始され、1610年(慶長15年)完成した。
天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であった。天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
1609年(慶長14年)に家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、1633年(寛永10年)以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれた。
現在
三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し市街地化しているが、二ノ丸・本丸は「駿府城公園」として市民に開放されている。
三重の堀のうち外堀の三分の一は埋め立てられて現存しない。中堀は現存するが一部の石垣は過去の地震によって崩落したままになっており土塁のようになっている。
また、内堀は明治時代に陸軍歩兵第34連隊が駐屯中に埋められたが、部分的に発掘され保存されている。
1989年に市制100周年の記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が伝統的工法によって復元された。内部は資料館となっており見学することができる。
また、2014年(平成26年)3月末には二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。
2016年(平成28年)8月より天守台の発掘調査が始まった。調査は2020年2月まで行われ、石垣の状態確認や学術データの採取が実施される。
建築物
天守
駿府城の天守は3度建てられた。まず、天正年間または天正17年に建てられた天正期天守。
次が、1607年(慶長12年) の慶長1期天守でこの天守は完成後まもなく焼失した、もしくは建築前に本丸が火災に遭い中止したと見られる。
最後は、その翌年から1610年(慶長15年)に再建された慶長2期天守である。1896年(明治29年) まで現存した天守台は、この慶長2期のものである。天守の高さは33.5mだった。
天正期天守に関しては小天守があったという記録のみで、慶長1期天守も資料が少ない。そのため、現在主に研究対象とされているのは、駿府城最後の天守となった慶長2期天守である。
大日本報徳社蔵の『駿州府中御城之図』より、淀城の天守と同じく天守台に余裕を持たせて天守をほぼ中央に建て、4隅に二重櫓を建てて多聞櫓を建て廻したという説が最も有力とされている。
天守の外観は『慶長日記』や『当代記』などより次の事が判明している(なお、両文献も柱間は7尺間としている)。
- 1階 – 10間×12間、四方に落縁
- 2階 – 同上、四方に欄干
- 3階 – 同上(9間×11間)、腰屋根は瓦
- 4階 – 8間×10間、腰屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製
- 5階 – 6間×8間、腰屋根・懸魚・鰭・唐破風・鬼板は白鑞製、逆輪・釘隠は銀製
- 6階 – 5間×6間(5間×8間)、屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製
- 7階 – (4間×5間)、屋根・破風は銅製、軒瓦は鍍金、懸魚・鰭・破風の逆輪・釘隠は銀製、筋・鴟吻・熨斗板・逆輪・鬼板は金製
なお慶長2期天守の完成後、家康は天守の窓戸から雨のように水が漏れると苦情を漏らし、名古屋城天守も同じ状態にならないことを求めている。天守木造復元の検討天守の構造について確定的な資料は発見されていない。
このため、復元時に採用する構造については様々な立場から複数の案が出されている。
静岡市による、天守台の復元計画がある。又、天守台は発掘調査によって江戸城の天守台より大きいことが分かった。
堀・石垣
内堀は、発掘・復元された南東の一部と中堀との間を結ぶ水路、天守台発掘調査で露出した部分を除いて埋立て消滅しているが、中堀と東辺以外の外堀はほぼ江戸期の姿を残している。
ただし、歩兵第34連隊が置かれた後に架けられた凱旋橋、城代屋敷跡付近の城代橋、静岡県庁本館前など、江戸期とは異なる位置に架橋されている箇所がある。
中堀・外堀外縁の石垣・土塁は、1854年(嘉永7年)の安政東海地震による崩落や明治以降の改変によって積み直されている箇所が多いが、大手御門の虎口や北御門跡などが往時の姿をよく残している。
また、残存する石垣に天下普請を物語る刻印を確認することができる。又、現存する堀は中堀と外堀の一部だけである。
移築建築物
駿府城のお万の居間が移築され、静岡県三島市にある妙法華寺の奥書院として現存している。これが駿府城唯一の現存建築物であり、三島市文化財に指定されている。なお、一般には公開されていない。