徳島県

徳島県内にある城跡の大半が、県全体の7割以上を占める山地に築かれた山城と、吉野川など大きな川沿いの平野部に築かれた居館との2つにわけることができます。

戦国時代、元亀元年(1570)以降に土佐の長宗我部氏に侵攻されるまでの間、織田信長より早く上洛を果たして室町幕府の実権を握った三好長慶の一族が勝瑞を拠点に阿波国内を治めていました。

近年、阿波の城郭についての調査・研究の進展により、その実態が明らかになりつつあります。

徳島県

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徳島城【日本100名城】: 34.075035, 134.554528
勝瑞城【続日本100名城】: 34.130630, 134.522417
撫養城(むやじょう): 34.177938, 134.618740
大西城: 34.030796, 133.808890
白地城: 34.015190, 133.781826
東山城: 34.045637, 133.857551
海部城: 33.594344, 134.358459
岩倉城: 34.073186, 134.131125
一宮城【続日本100名城】: 34.034043, 134.463411
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徳島城【日本100名城】
徳島城【徳島市】

徳島藩 蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎えた城。現在は公園として整備され、空襲で焼失した鷲之門が復元されている。



遺構:石垣・堀・庭園

復元建築:鷲の門
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勝瑞城【続日本100名城】
勝瑞城(しょうずいじょう)【藍住町】

阿波細川氏や三好氏の居城。居館である勝瑞館も含めて勝瑞城と呼ばれている。徳島県内に残る中世城郭の中では珍しい平城で、中世地方都市しては異例といえるほど城下町が繁栄し、阿波の政治・経済・文化の中心地として栄えた。

遺構:土塁・堀
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撫養城(むやじょう)
撫養城(むやじょう)【鳴門市】

豊臣秀吉による四国征伐の後は蜂須賀家政の家臣である益田正忠が城番を務めた城。また、10代将軍・足利義植、14代将軍・足利義栄の両名がこの城において最後を遂げている、足利将軍家とゆかりのある城。



遺構:曲輪・石垣

※天守はなかったが、模擬天守が建てられている。
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大西城
大西城【三好市】

阿波九城のひとつとして、蜂須賀家政の家臣である牛田掃部尉が城代をつとめた城。「一国一城令」により廃城となったあとは徳島藩三好郡代所が置かれていた。

遺構:石垣
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白地城
白地城【三好市】

長宗我部元親が四国統一の拠点とした城で、また羽柴秀吉の四国平定軍を迎撃する際に本陣を置いた城。現在城址は「ホテルあわの抄」になっており、当時の遺構は石碑が建つ大西神社の裏手に、わずかに土塁や切岸が残っているのみとなる。

遺構:曲輪・土塁
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東山城
東山城【東みよし町】

東山城は白地城の支城で、1577年に長宗我部元親に攻められ落城し、その後は長宗我部氏によって改修されたものと考えられている。現在は山頂の主郭部まで登山道が整備されており、堀切や空堀などの遺構を確認することができる。

遺構:曲輪・土塁・空堀・竪堀・堀切
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海部城
海部城【海陽町】

土佐の長宗我部氏に対する阿波国最前線の城。羽柴秀吉による四国征伐によって蜂須賀家政が阿波へ入封し、改修させました。「一国一城令」により廃城となりました。現在でも曲輪跡や土塁を確認できる。

遺構:曲輪・石垣・堀切
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岩倉城
岩倉城【三好市】

三好康俊が城主をつとめた城で、長宗我部元親が侵攻すると降伏。さらに羽柴秀吉の四国攻めでは豊臣秀次らによって攻められ再び落城。現在は本丸跡周辺にわずかに堀切が確認されるのみ。

遺構:曲輪・堀切・切岸
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一宮城【続日本100名城】
一宮城【徳島市】

南北朝時代に築かれた一宮氏の居城で、徳島県内で最大級の山城。豊臣秀吉による四国征伐の際には豊臣秀長と長宗我部元親との攻防の舞台となった。徳島城の支城(阿波9城のひとつ)として重要視されていましたが、一国一城令によって廃城。



遺構:曲輪・石垣・竪堀