江戸城【日本100名城】

江戸城は東西約5.5km、南北約4km、周囲約14kmの城域を誇り、名実ともに近世城郭として国内最大の巨大城郭といる。
太田道灌によって築城され、徳川家康によって大幅に改修された。

現在は皇居として利用されているが、本丸・二の丸・三の丸部分は皇居東御苑として開放されているので、自由に見学することができる。江戸時代に巨大な天守が三度建てられており、いずれも当時国内最大の規模を誇っていましたが、明暦の大火で焼失してからは再建されておらず天守台のみが残っている。
今でも最高技術の石垣や、城門、櫓などが現存している。

江戸城の見どころ

■桜田門・田安門など国内最大級の城門が残っており、最高技術の切込接の石垣も見ることができる。
■日本の中枢 東京の中心地らしく、高層ビルと歴史的建築物のロケーションは江戸城でのみ見れる特別感。

名城スタンプと御城印

日本100名城スタンプ
・楠公休憩場
 時間:10:00~16:00
・和田倉休憩場
 時間:9:00~17:00
・北の丸休憩場
 時間:9:00~17:00

御城印
「江戸城天守を再建する会」主催の江戸城散策ツアー、お城EXPOなどのイベントで購入可能。

江戸城 周辺の天気

別名千代田城
城郭構造輪郭式平山城
天守構造・1606年新築天守(解体、非現存)
 連立式層塔型5重5階地下1階
・1621年再築天守(解体、非現存)
 独立式層塔型5重5階地下1階
・1635年再築天守(焼失、非現存)
 独立式層塔型5重5階地下1階
築城主太田道灌
築城年1457年(長禄元年)
主な改修者徳川家康、秀忠、家光
主な城主太田氏
扇谷上杉氏
後北条氏
徳川氏
遺構現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
特別史跡
再建造物富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、大手門

写真で見る江戸城

レポート

江戸城について

江戸城の前身は、1457年に扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城である(麹町台地の東端にあった)。

1590年に徳川家康が江戸城に入城し徳川家の居城となった。そのころは武蔵野台地の東端にある、いくつかの小さな建物から成る"城"(砦)で、東側のすぐ下に日比谷入江が入り込んでいた。

徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍となり、江戸に日本の幕府が置かれると、諸国の大名を動員して巨大な濠と石垣を時計回りの渦巻状に巡らして日本一の巨大な惣構えを築くための大規模な拡張工事が、特に初代将軍徳川家康存命中の1603年(慶長8年)から10年の間に集中的に行われた。

徳川秀忠が将軍の座を譲られ第二代将軍であった時期(1605年から1623年)、および第三代将軍徳川家光の代にも拡張工事が行われ、家光が将軍だった時期である1636年(寛永13年)に江戸城の西の端の外濠である真田濠の工事を完了したことで、巨大な惣構えの城が完成した。

これにより総構えの周囲約4里、総面積が約20.82 平方キロメートル(2082ヘクタール)の巨大城郭となり、これは日本で2番目に広い大阪城の約5倍の面積であり日本最大面積の城郭になった。

これを現代の距離や面積で表示すると、外郭は周囲約15.7キロメートル、東西が約5.45キロメートル、南北約3.82キロメートルあり、面積の"約2,082ヘクタール"というのは、現代の千代田区(1,166ヘクタール)の1.7倍の面積という巨大さだった。

およそ260年にわたり、徳川幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。将軍は江戸城内に住み、将軍の家族女性らが住む大奥も設けられた。将軍の補佐役の老中やその下の若年寄などは月番制つまり月替わり制でそれぞれ数名が担当し、江戸城周辺の屋敷から日々登城(出勤)した。

江戸時代の改修

徳川江戸城の築城においては、町づくりを含め、伊豆の石材は欠かせないものであった。壮大な石垣用の石材は、ほとんど全てを相模西部から伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、海上を船舶輸送して築いたものである。静岡県東伊豆町では、江戸城に使う石を切り出し港まで運ぶ様子を再現した「御石曳き」が行われている。

本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した
その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。

以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。江戸時代後期に伊能忠敬が作成した「大日本沿海輿地全図」大図の第90図には江戸城が描かれているが、城内の建物群配置は機密であったため空白で、諸街道に通じる九つの門のみが記されている

縄張

本丸と西ノ丸が独立している、一城別郭の形式である。武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に山の手側は谷戸を基に濠を穿ったので曲面の多い構造をしている。逆に下町は埋立地なので、直線的に区画された水路や街並みを見ることができる。

石垣を多く見ることができるが、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され船で送られたものである。それまでは他の関東の城と同じく土塁のみの城だったとされるが、関東領国時代に石垣が施された箕輪城の例から本丸の一部に石垣があったとする見解もある。関東で石垣を多用した近世城郭は江戸城と小田原城しかない。それでも外郭や西ノ丸、吹上などは土塁が用いられているが、特に吹上の土塁は雄大である。

建築物

天守

太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(3重とも)で、『落穂集』には八方正面の櫓として富士見櫓の位置にあったとする。江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。佐倉城の銅櫓は二重櫓で2重目屋根が方形造で錣屋根のようになっていた。

徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と3度築かれている。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた。

明暦3年(1657年)の明暦の大火によって寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が加賀藩主の前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、幕閣の重鎮であった保科正之の「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見により、江戸市街の復興を優先する方針となって中止された
のちに新井白石らによって再建が計画され、図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。これ以降、諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる

御殿

御殿は本丸・二ノ丸・西ノ丸・三ノ丸御殿がある。この内、三ノ丸御殿は元文年間に廃絶された。本丸御殿は将軍居住・政務・儀礼の場として江戸城の中心的な役割を持ち、二ノ丸御殿は将軍別邸や隠居した将軍の側室が晩年に過ごす場所として、西ノ丸御殿は隠居した将軍や世継の御殿として用いた。

三重櫓6棟、二重櫓10棟、平櫓4棟、多門櫓26棟

江戸城は幾度にもわたる火災によって焼失し、現存する伏見櫓、富士見櫓、巽櫓なども大正期の関東大震災の際に損壊した後、解体して復元されたものであるため、櫓の構造などを考察するにあたっては、明治初頭に撮影された写真や絵図、指図、文献などが用いられている。

幕末まで現存していた二之丸の蓮池巽三重櫓、蓮池二重櫓の二棟は明治初年に接続する箪笥多聞櫓の火災が延焼し焼失した。

江戸城の櫓は櫓門も含め、白漆喰塗籠壁(寛永度天守除く)に、幕紋の足利二つ引を現す2本の長押形を施し、破風・妻壁には銅板を青海波模様に張っていた。初重に出張を設けて石落としとしているものが多い。これらの特徴の一部は、幕府が関与した二条城や小田原城などの城郭にも施された。

初重平面6間×7間か7間×8間を標準的な規模として、大坂城や名古屋城にも同様に用いた。1871年(明治4年)に記された『観古図説』には、二重櫓の初重平面規模は最小で4間四方(書院出二重櫓)、最大で8間×9間(乾二重櫓)、三重櫓は6間×7間から8間×7間のものが記されている。

多聞櫓は嘗ては本丸・二ノ丸のほとんどを囲っていたが、時代を経るごとに本丸西側では塀へと置き換わっていった。

外郭25棟、内郭11棟、城内87棟

虎口は、一の門である高麗門と二の門の櫓門で構成される。大坂城や名古屋城の様な枡形の三方を櫓門・多聞櫓で囲んだ型式は江戸城には少なく、完全なのが下乗門、不完全なものが北桔橋門にあるだけである。

櫓門は桁行は15間から20間、梁間が4間から5間ほどのものが建てられ、最大では、桁行25間(赤坂門・芝口見附新橋門)のものもあったが、享保9年(1724年)以降は24間×5間(下乗門)のものが最大となった。ちなみに、最小規模は4間×2間(山下門)である。

現存遺構

水濠、空堀、門の多くが遺構として現存している。
江戸城外堀跡(千代田区・新宿区・港区に所在)
城門では、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している。

※関東大震災で倒壊後、最初は内部はコンクリート造り、後に木造で復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、同心番所、百人番所、大番所なども宮内庁管理のため、重要文化財などには指定されていないが現存する。

特別史跡指定
江戸城跡 1956年(昭和31年)3月26日 外堀跡が「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定され、1960年(昭和35年)5月20日に「江戸城跡」として国の特別史跡に指定された。重要文化財指定

都市再開発の動きに伴い、丸の内や、霞が関の文部科学省で外堀の石垣が地中より発掘された。

移築遺構

川越の喜多院には3代将軍家光誕生の間とされる江戸城の江戸期移築建物が、氷川神社には二ノ丸にあった東照宮社殿が残る。移築建物と川越城御殿の二つの御殿が見られる。

1910年(明治43年)に蓮池御門を名古屋城正門として移築したが、1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で焼失し、後に復元された。

管理人:つぶやき城ー
管理人:つぶやき城ー

MEMO
江戸城は巨大城郭だったので、東京都内の至る所に遺構が残っています。
富士見櫓や伏見櫓は立ち入り禁止で普段見ることができません。一般参賀や皇居一般参観で見ることができます。詳しくは宮内庁のホームページをチェック!

マップ

アクセス

■JR中央線・東京駅から徒歩5分
■地下鉄千代田線・大手町駅から徒歩5分

■首都高速都心環状線・代官町ICから1分

街に埋もれた江戸城の遺構

四谷見附 石垣四ツ谷駅

四谷見附の石垣は江戸城外堀の西の玄関口「四谷門」の遺構。明治時代の撤去後、駅改修工事で再発見された石垣の一部(渡櫓門の石垣下段)は、駅舎下部や橋詰に保存・展示されており、毛利家を示す「雁金紋」も確認できます。

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牛込見附 石垣【飯田橋駅】

上州道に通じる江戸城外郭門のひとつです。外濠に面した見附のなかでも、江戸の遺構がもっともよく残ります。1639(寛永16)年、徳島藩の初代藩主蜂須賀忠英らによって築かれました。解体された角石に、普請した忠英を指す「松平阿波守」の文字が発見されています。

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高輪大木戸跡【高輪ゲートウェイ駅・泉岳寺駅】

江戸の入り口であるため高輪は大木戸と呼ばれ、旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのもここまででした。第一京浜の線路側に石垣が残されています。伊能忠敬は正確な日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。

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浜離宮恩賜庭園【汐留駅】

江戸幕府 将軍家の庭園。超ハイクオリティな石垣が残っている。庭園ながら広大な敷地に城郭といっても過言ではないほどの水堀と石垣を見ることができる。

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