八王子城【日本100名城】
八王子城は北条氏康の三男である北条氏照によって築城されました。築城の際には、織田信長の安土城を参考にしたともいわれています。小田原城の支城であり、北条氏最大の支城でした。豊臣秀吉の小田原征伐の一環として豊臣方の上杉景勝・前田利家・真田昌幸らに攻められ、落城しました。
その後、徳川家康の江戸入封によって廃城となりました。国の史跡や日本100名城に選ばれ、発掘調査や整備も進み、御主殿跡付近の石垣・虎口・曳橋などが復元されています。
Contents
八王子城の見どころ
■復元された居館エリアは綺麗に整備され、関東では珍しい石垣の城の姿が見事に復元されています。
■要害エリアでは守りの城郭らしい険しい道が続きますが、本丸付近からは東京都内まで一望できます。
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ
・八王子城跡ガイダンス施設
開館時間:9:00~17:00
■御城印
・桑都日本遺産センター 八王子博物館
八王子城 周辺の天気
| 別名 | 武州八王寺城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 北条氏照 |
| 築城年 | 1587年(天正15年) |
| 主な城主 | 北条氏照 |
| 廃城年 | 1590年(天正18年) |
| 遺構 | 石垣、曲輪、堀切、井戸、竪堀、虎口、礎石 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 再建造物 | 引き橋、冠木門、木塀 |
写真で見る八王子城
レポート
八王子城について
八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。標高460m(比高約240 m)の深沢山(現在の城山)に築城された中世山城である。深沢山の麓、華厳ヶ谷に庵を結んだ華厳菩薩妙行が延喜13年(913年)に山頂で修行中、牛頭天王と8人の王子が現れたとして延喜16年(916年)に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。
別の説では山王権現を祀る日吉大社の末社である山王社が多摩地区には広く存在しており、深沢山にも山王社があったために日吉大社の神体山にちなんで「八王子山」とも呼ばれていたことから八王子城と名付けられたとする説もある。
縄張りは北浅川と南浅川に囲まれた東西約3 km、南北約2 – 3 kmの範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられ、山頂に置かれた本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。
要害地区にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。
城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった3つの宿場があったと言われている。また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、小田野城の他、初沢城などがあった。
八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には太鼓曲輪尾根の南斜面などの区域が含まれておらず、16世紀当時より狭い範囲に限定されている。史跡に含まれていない区域は霊園や私有地が入り組んでいるため、住宅地の中にも多くの遺構を確認することができる。

出典元:余湖くんのホームページより ※無断転載禁止
歴史・沿革
北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)より築城し、1587年(天正15年)に本拠とした。ただし、近年の研究では古文書などの分析により、元亀段階には小規模な城砦みたいなものが存在した可能性はあるものの、本格的な築城は1578年(天正6年)とみる説が有力である。なお、かつては古文書を根拠とした1560年(永禄3年)説・1562年(永禄5年)説もあったが、1569年(永禄12年)に武田氏との間で滝山城の籠城戦が行われているため、今日では否定的である。
また、近年滝山城の築城を1563年(永禄6年)以降とする有力説があり、この説を採用した場合には永禄年間初頭説では、滝山城より八王子城の方が先に築城されてしまうことになる矛盾が生じるため、その意味でも成立しないとみられる。
氏照は当初、大石氏の由井城、後に滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際、(廿里古戦場、三増峠の戦い)に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。また、北条氏と武田氏はその後一旦和睦したものの、1578年(天正6年)に始まった御館の乱の対応を巡って甲相同盟が破綻しており、甲斐方面からの軍事的圧力に対抗するために築城した可能性も指摘されている。
このとき、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行った。滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。
織豊系城郭と比較すると、より近世的な戦術を志向している。しかし、氏照が入った時は、御主殿など含む主郭部と一部の主要な要所部分のみ完成しており、氏照が小田原へ援軍へ向かったとしても八王子城は、増築を何度も八王子城合戦の日まで繰り返された。
八王子城合戦
小田原征伐の一環として天正18年(1590年)6月23日 、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は本城である小田原城の守備につとめており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀ら氏照の重臣らをはじめとした限られた数の将兵の他、領内から動員・保護された領民(女性や子どもも含む)を加えた約3000人が立て籠った(※八王子城側、豊臣軍側の人数については諸説あり)。
豊臣側は夜の濃霧のなか、主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の搦め手(下恩方町)の2方向より侵攻した。両軍とも多数の死傷者を出す激戦となった。日暮れまでのうちに城は陥落し、氏照正室の比左をはじめとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げたという(諸説あり)。
八王子城における戦いの様子は熾烈を極め、落城した八王子城側のみならず攻め手側の豊臣側にも多大なる犠牲者を出した。このことは豊臣方の武将らの書き記した史料に残っており、小田原攻めの中だけでなく戦国史における城攻めのなかにおいても屈指の激戦となった。城代の横地監物は落城前に城を出て檜原村に向かい、その途中の小河内村付近にて自害している(諸説あり)。
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられ、現代でも受け継がれている風習として、先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(すなわち赤飯)を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。寳生寺が受難者の法要を続けている。
この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。当主の氏直については高野山にて蟄居後、病死。 なお、この戦いをもって北条氏が滅びたわけではなく、嫡流を除いた一族が各地に渡り存命、遺された家臣たちもそれぞれ徳川家康、のちの幕府に取り立てられ、家を守りながら活躍を続けている。 特に、氏照家臣として最期まで付き従ってきた狩野氏、中山氏の子息らにおいては、将軍家の傍近くで仕官し、馬術指南役を務めるなど、多大なる功績を残している。 現代に至るまで、八王子を中心とした関東の各所で、その子孫たちが家名を守り、歴史と伝統を紡いでいる。
史跡
麓には2012年(平成24年)に完成した八王子城跡ガイダンス施設があり、施設内には八王子城の歴史を紹介する映像放映や展示解説スペースのほか、一息つける休憩スペース(飲食可)などがある。八王子城と滝山城のそれぞれの地形を再現した精巧な模型や、手作り甲冑の展示などがある。
園路を進んだ先には屋根付の大きな八王子城の屋外模型があり、曲輪の名称などを表記した説明板が付属している。無料で利用することができる見学者専用駐車場やトイレがあり、駐車場は普通車で約30台分のスペースがある。利用時間は午後5時までとなっている(時期により変更あり)。
駐車場の先を100mほど進むと1992年(平成4年)に完成した八王子城跡管理事務所があり、ここにもスタンプ台とトイレが整備されている。ガイダンス施設完成前は唯一の公的有人施設であった。管理事務所では2009年(平成21年)4月よりボランティアによるガイド(無料)が始まっている。研究熱心なガイドの方々による説明は、八王子城見学をより充実したものにしてくれる。
山頂付近には、八王子神社などの建物、トイレ、ベンチ等があるが、売店などの有人管理の施設や自動販売機や照明はない。
八王子城跡に行くまでの道に、北条氏照の墓がある(表示あり)。途中、私有地があるので見学には注意が必要。
発掘調査と遺構
出土遺物
発掘により、八王子城が畿内で発展した安土桃山時代の新式の城の影響を受け、広い大手道や大きな城門を備えた大がかりなものであったことが明らかになってきた。遺跡からは発掘により五彩磁器皿などの磁器や茶道具、香炉、ベネチアンガラスなどが出土し、城内の生活をしのばせる。

曳橋
古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋である。橋脚の部分しか資料が発見されていないため、橋脚以外の部分は現在の建築技術で16世紀当時の道筋を再現して架けられた。築城当時の構造については諸説あり、敵の侵入時に板を外せる構造や、橋桁ごとスライドする構造(八王子城管理事務所内所蔵)などが考えられている。
御主殿側の橋台の位置は築城当時より5mほど東側にずれており、このため段差が生じて石段が設けられている。橋台の西側の石垣は、林道整備のために削られ、移築されている。

御主殿跡
落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため、落城当時のままの状態で保存されていた。発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土した。なお礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま残っている。2012年から地中の遺物のレプリカを地上に設置する整備が行われ、2013年に完成した。庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のものである。

虎口跡
石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されている。御主殿入口の冠木門(かぶきもん)は当時の門をイメージして復元された。冠木門は老朽化のため2010年に新築されている。

大手門跡と古道
当時御主殿へ入る道として使われていた。門の礎石や敷石が1988年の確認調査で発掘されたが保存のために埋め戻されている。
整備工事
整備工事は御主殿跡の虎口と、そこに至る大手道を整備範囲として行われた。石垣はゆがんだり欠落していたため、築城当時の工法で積み直し、さらに失われてしまった石材は補充して復元された。橋や門、柵、塀は、はっきりした痕跡が発見されなかったため、八王子城の特徴的な城の守り方を理解できるように、築城当時の通路形態を想定して再現された。
MEMO
城山要害部については一部を除いてほとんど調査が行われておらず、樹木の伐採も行われていない為、僅かに残された石垣は土砂崩れや樹木の倒木によって失われつつあります。通行不能となった水平道もあるので注意が必要です!
マップ
アクセス
■JR中央線・高尾駅、北口1番バス停より、西東京バス「高尾の森わくわくビレッジ」「宝生寺団地」「恩方車庫」「大久保」「陣馬高原下」「グリーンタウン高尾」「美山町」行きで、バス停「霊園前」下車、徒歩約15分
■JR中央線・高尾駅、北口1番バス停より、西東京バス「八王子城跡」行きで終点まで ※土日休日のみ運行
■圏央道八王子西インターチェンジから高尾方面へ約10分。
■中央道八王子インターチェンジ第2出口から、甲州街道を経由して約40分。
八王子城 周辺スポット
朝遊山 宗関寺

平安時代に華厳菩薩が開いた寺を北条氏照が永禄7年に再興した寺が前進といわれている。
「宗関寺銅造梵鐘」は北条氏照の百回忌に際し、氏照の家臣中山家範の孫、中山信治等が八王子城の戦死者の追善供養のために鋳造寄進したものです。
高尾山薬王院

天狗の神様を祀り開運・魔除のご利益で知られる。現在は真言宗智山派の大本山として、都内はもとより遠方からも参拝者が訪れる名刹だ。
八王子城 周辺宿泊施設





















