品川台場【続日本100名城】
1853年(嘉永6年)のペリー来航に危機を感じた江戸幕府は6つの台場(砲台)を築造した。当初11基の予定でしたが資金不足により、5基が完成した。
大小260門の大砲が設置されたものの使用されることはなく、明治維新後も陸軍省が管理していたが、その後は民間に払い下げられた。なお第三台場は関東大震災によって破壊されたため、復旧工事がおこなわれ現在は「台場公園」として一般公開されている。
第六台場は原型を残していたことから史跡保存のために上陸が許可されておらず、レインボーブリッジの遊歩道から眺めることができる。
品川台場の見どころ
■東京の人気スポット お台場とレインボーブリッジとのロケーションは絶景!
■西洋の軍事技術を応用しながら、ハイクラスな伝統的石積技術を目の当たりにできる。
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ
お台場海浜公園内 マリンハウス1階(公園インフォメーションセンター)
利用時間:【4月~9月】9:00~19:00、【10月~3月】9:00~18:00
■御城印
至誠堂(お城EXPOなどのイベント時に購入可能)
品川台場 周辺の天気
| 城郭構造 | 陵保式 |
|---|---|
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 江戸幕府 |
| 築城年 | 1853年(嘉永6年) |
| 主な改修者 | なし |
| 主な城主 | 江戸幕府 |
| 廃城年 | ー |
| 遺構 | 土塁、石垣、砲台 |
| 指定文化財 | 国指定史跡 |
写真で見る品川台場
レポート
歴史
1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊が第13代アメリカ合衆国大統領のミラード・フィルモアによる日本開国の任務の為、来航して幕府に開国要求を迫る。これによりアメリカ合衆国による日本への侵攻の可能性に脅威を感じた幕府は、老中首座の阿部正弘の命で品川台場(お台場)を築造した。
江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。
品川沖から深川洲崎にかけての海上に11基の台場を一定の間隔で築造する計画であった。工事は昼夜兼行で進められ、およそ8か月にわたる工期で1854年(嘉永7年)にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。
お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけ、御台場と称したことが由来である。埋め立てに用いる土は高輪の八ツ山や御殿山、泉岳寺の山を切り崩して調達し、それらの前の海岸から船で運ばれた。また、そのために東海道の高輪通りを昼間は通行止めにした。
ペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した。第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。第四台場は7割ほど完成していたが工事は一旦中断され、7年後に工事が再開されて完成した。
第四台場は後日、造船所の敷地となった。また第四台場の代わりに品川の御殿山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。現在は台場公園として開放されている第三台場と、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。
完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。
この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることでその損傷を大きくすることを狙ったものである。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。
品川台場 周辺施設
泉岳寺

曹洞宗江戸三ヶ寺の一つに数えられる由緒ある寺で、赤穂浪士と浅野長矩が葬られていることでも知られています。
赤穂浪士記念館では義士ゆかりの品を鑑賞できます。
妙蓮寺

太田道灌が江戸城を完成させた長禄元年(1457)に妙蓮寺も開創されたといわれている。
墓地には、新吉原の遊女で仙台藩主伊達綱宗の愛妾だったといわれる薄雲太夫などの墓がある。
品川台場 周辺宿泊施設



















