甲府城【日本100名城】
天正10(1582)年に武田氏が滅びると、甲斐は織田信長の領国となり本能寺の変後は徳川家康の支配下となる。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移され甲斐は秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が支配することになる。後に加藤光泰、浅野長政・幸長の支配となる。
発掘調査により城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や金箔や朱を施された瓦、豊臣家の家紋瓦が出土していることから築城はこの頃と考えられている。関ヶ原の戦後に、甲斐は再び家康の支配下となり、慶長12(1607)年には幕府の直轄地となる。城番は武田十二騎がつとめ支配が代わった後も城番制度が続く。
寛文元(1661)年に徳川家光の四男の徳川綱重と、その子綱豊(後の6代将軍家宣)が甲府藩・甲府家をたてる。その頃に城の大規模な修復がおこなわれている。
Contents
甲府城の見どころ
■石垣初期の野面積みと高石垣。一つ一つの石材が大きく迫力がある。
■何層にも段になった曲輪は、石垣で形成されていて壮大。
■天守台からみる景色は雄大で、360度に山々が広がる。
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ
〇舞鶴城公園 稲荷櫓
開館時間:9:00~16:30(入館は16:00まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
〇甲府市歴史公園 山手御門
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
■御城印
甲府市観光案内所
時間:9時~18時
土休日(4~11月):9時~19時
土休日(12~3月):9時~18時


甲府城 周辺の天気
| 別名 | 舞鶴城、一条小山城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 梯郭式平山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 徳川家康 豊臣秀勝 |
| 築城年 | 1583年(天正11年) |
| 主な城主 | 浅野氏 徳川氏 柳沢氏 |
| 廃城年 | 1873年(明治6年) |
| 遺構 | 石垣、堀 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 再建造物 | 櫓、門、土塀 |
写真で見る甲府城
レポート

2025年12月:初訪城
概要
甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された中世から近世にかけての平山城である。
甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備された。豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となった。
天守台はあるが天守が建てられていなかった。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となる。
明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化される。さらに中央線の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されたが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっている。
また、出土遺物のうち鯱瓦(甲府城跡出土金箔鯱瓦)と飾瓦(甲府城跡出土飾瓦)は県指定文化財。
築城主・築城年代
徳川家康は武田氏滅亡後は甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐における支配的拠点としていたが、1583年(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われる。
天正11年築城説の根拠となる年未詳正月27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の平岩に対して一条小山における築城の準備を命じており、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣を行っている。石垣積は「穴太積」とも呼ばれる西国系の技術で、織田信長が天正4年(1576年)の安土城築城において本格的に使用し、豊臣秀吉に引き継がれたという。戦国期の甲斐や武田領国、家康の領した東国五カ国には存在せず、甲府城において初めて用いられている。現在の甲府城の石垣遺構は技術的な中断の形跡が無く同一の技術水準によるものであることが指摘され、豊臣大名時代の築造と考えられている。
これらの石垣積の導入時期や甲斐・家康を巡る政治情勢から、平山優は甲府城築城に関わる年未詳家康文書の年代比定は天正11年ではなく、小田原合戦・家康の関東転封をひかえた天正17年頃である可能性が指摘を指摘し、家康は甲府城の築城を企図していたが実現されず、甲府城の築城は豊臣大名時代になされたと評価している。
豊臣大名・江戸時代の修築
甲府城の築城は豊臣大名時代に本格化している。豊臣秀勝は天正18年7月に甲斐を拝領するが、翌天正19年2月には美濃へ転封されているため在国期間が短く、秀勝時代の甲府城築城に関する史料は天正18年8月3日付羽柴(豊臣)秀勝黒印状写のみが知られている。
秀勝の次に甲斐を拝領した加藤光泰時代には天正19年10月19日付加藤光泰黒印状や年未詳正月14日付加藤光泰書状などの史料が見られ、杣工に動員をかけ甲府城築城を行っており、城内の殿舎の建設も開始されている。光泰時代に甲府城の築城は本丸・天守曲輪・稲荷曲輪・館曲輪など中心部分が竣工されていたと考えられている。
次代の浅野長政・幸長時代にも築城は継続されているが、このころには秀吉の朝鮮出兵が行われ、甲府城の築城は困難にさしかかっており、甲斐では農民の逃散も発生している。光泰・浅野氏時代には一条小山の一蓮寺をはじめ、寺社の移転も行われている。
江戸時代には甲府藩が設置される。宝永元年(1704年)には甲府藩主・徳川綱豊(家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保は甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられる。翌年4月には駿河国の知行地が替えられ甲斐国国中三郡を支配した。吉保は大老格の立場であったため甲斐を訪れることはなかったが、家老の薮田重守に対して甲府城と城下町の整備のほか、甲斐国内の検地や用水路の整備、甲州金の一種である新甲金の鋳造などを指示している。
甲府城の整備では新たに花畑曲輪を設置し、楽屋曲輪や屋形曲輪には御殿を建設した。こうした柳沢氏時代の甲府城下の繁栄を『兜嵓雑記(かいざっき)』では「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」と記している。
木造復元された建造物
■稲荷櫓
2004年に復元された二重櫓。城内の北東に位置することから艮櫓とも呼ばれた。
■鍛冶曲輪門
鍛冶曲輪と楽屋曲輪を結ぶ門。1996年に木造復元された。
■内松陰門
屋形曲輪と二ノ丸を結ぶ門。1999年に木造復元された。
■山手御門
山手門(やまのてもん)は本丸北側に位置する。遺構は残っておらず、現存する絵図や、明治時代の測量図、古写真などから、低い石垣の上に土塀を設けた追手枡形の塀を持つ、高麗門の形式をとっていたものと見られる。2007年に木造復元された。
■鉄門
甲府城鉄門(くろがねもん)は本丸南側に位置する。左右に石垣を有した2階建ての櫓門。創建当初は「南門」と呼称され、柳沢氏時代に改称され「鉄門」と呼ばれるようになった。
鉄門の創建に関しては不明であるが、諸記録や絵図から文禄・慶長年間の築城期から江戸初期にかけてと推定されている。改修に関しては、南アルプス市在家塚の年未詳「在家塚村瓦資料」に拠れば瓦の葺き替えに関する記録があるのみ。1876年(明治9年)頃に解体され消失した。
鉄門とその周辺地域では1993年・1997年に発掘調査が実施され、露出していた9箇所の安山岩製の礎石や天守曲輪へ続く石段の遺構が確認された。遺物としては瓦類があるが、本丸内のものが含まれている可能性が指摘される。
舞鶴城公園整備事業において2004年度には稲荷櫓の復元が完成し、次の整備計画として鉄門と銅門の復元が検討された。2010年には鉄門の復元が決定され、甲府城跡櫓門復元検討委員会が組織された。
両側の石垣の状態は良好と評価され、解体修理は行われず補修工事のみが行われた。復元に際しては文献史料や絵図、古写真などの関連史料の調査が行われ、江戸初期の姿を念頭にした復元を行う方針となる。
復元工事・石垣の補修は基本的に伝統工法に基いて行われたが、構造計算上必要とされた補強材は取り入れられた。建材は国産材を用いて復元が行われ、2013年に完成。
MEMO
岩盤の山を切り崩して築城したので、城内のいたる場所にむき出しの岩盤や、岩をそのまま使用した石垣などが残ります。
ほとんどの方が本丸の天守台を目指してそのまま帰ってしまいますが、稲荷曲輪の東側と北側の石垣は17mの高石垣なので是非、足を運んでみてください。
マップ
アクセス
■JR中央本線・甲府駅南口から徒歩約5分
■中央自動車道・甲府昭和ICから15分
動画で見る甲府城
甲府城 周辺スポット
華光院

甲府城の毘沙門堂は柳沢氏時代に本丸に所在していた建造物。2014年には甲府市元紺屋町の真言宗寺院・華光院の太子堂が毘沙門堂を移築したものであると確認された。甲府城建物のうち現存する唯一のものとして注目されている。
宕山石切場跡

愛宕山石切場跡は安山岩の岩脈をもつ愛宕山の西側斜面に位置する。敷地内に矢穴が認められる石材が存在することや、史料・絵図に「石取場」の記載があることから、甲府城に関連した石切場であることがわかっている。甲府城跡とともに国の史跡に指定された。
甲斐 善光寺

武田信玄公によって創建された甲斐の名刹で、本堂と山門は国の重要文化財に指定されています。撞木(しゅもく)造りの本堂は、東西約38メートル、南北約23メートル、高さ約26メートルもある堂々としたもので、東日本最大級の木造建築物です。
甲府城 周辺宿泊施設

























