躑躅ヶ崎館(武田氏館)【日本100名城】

躑躅ヶ崎館は武田信玄の父である武田信虎によって築かれた居館。以降、武田勝頼が新府城を築き移転するまで、武田氏3代が60年あまり本拠地として使用された。足利将軍邸である花の御所(室町第)を参考にした方形居館といわれている。
緊急時は裏山に詰城である要害山城を配置して、守りを固める構造になっていた。現在、跡地には武田信玄を祀った武田神社が鎮座。
居館でありながら深い空堀や桝形虎口、土塁など城さながらの遺構を見ることができる。

躑躅ヶ崎館(武田氏館)の見どころ

■曲輪を囲む高い土塁と、水堀や空堀。特に空堀は深く掘り込まれており圧倒されます。
■発掘調査によって復元された大手は、武田氏支配の後に改修された石垣などを見ることができる。
■西曲輪に設けられた、北と南の桝形虎口。

名城スタンプと御城印

■日本100名城スタンプ
・武田神社宝物殿
・武田神社神府集札授与所

■御城印
・信玄ミュージアム特別展示室
 時間:9時~17時(最終入館時間16時30分)
 定休日:火曜日(祝日の場合は翌日)
・武田神社

躑躅ヶ崎館(武田氏館) 周辺天気

別名武田氏館跡
城郭構造連郭式平城
天守構造なし
築城主武田信虎
築城年1519年(永正16年)
主な改修者徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰
主な城主武田氏、河尻秀隆、徳川氏
豊臣秀勝、加藤光泰、浅野長政
廃城年1594年(文禄3年)
遺構石垣、土塁、水堀、空堀、土橋、虎口、井戸、天守台、馬出し
指定文化財国の史跡

写真で見る躑躅ヶ崎館(武田氏館)

躑躅ヶ崎館 主郭水堀
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躑躅ヶ崎館 主郭水堀
躑躅ヶ崎館 土塁の上から見た北桝形虎口
躑躅ヶ崎館 土塁から見た北桝形虎口
躑躅ヶ崎館 北桝形虎口と土橋
躑躅ヶ崎館 南桝形虎口
躑躅ヶ崎館 大手桝形土塁
躑躅ヶ崎館 大手桝形と山脈
躑躅ヶ崎遊亭跡から見た山脈
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レポート

概要

甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である。

戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となる。

県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。

躑躅ヶ崎館の歴史

武田信虎の躑躅ヶ崎館建設と甲府開創

信虎も川田館を本拠としていたが、『高白斎記』によれば永正16年(1519年)に盆地中央に近い相川扇状地への居館移転を行った。移転の理由に関しては、石和館一帯が水害の常襲地であったためとする説もある。8月15日には鍬立式が行われ、8月16日には信虎による見分が行われている。信虎は12月20日に川田館から移住したという。

信虎は新館の建設と同時に有力国人の城下町移住を行っている。有力国人は甲府への集住に対して抵抗し、『勝山記』によれば永正17年5月には栗原氏・大井氏・逸見氏らが甲府を退去する事件が発生している。
また、館を守備する支城の築城も行われ、永正17年6月には背後の積翠寺丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)が築かれ、大永3年(1523年)には城下西方の湯ノ山に湯村山城(甲府市湯村)が築城されている。

また、武田氏と関係の深い石和からは、笛吹市石和町市部に所在する、武田信光ゆかりの石和八幡神社を勧請し、躑躅ヶ崎館西部に府中八幡神社を創建した。府中八幡神社は武田信玄により甲斐惣社となり、国内の武田領国内の神社統制を担った。また、信光居館の鎮守と伝わる御崎明神も甲府へ移転させた。

信虎は室町幕府の将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によれば、当初の居館は将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。

信虎時代には甲斐国内の有力国人が武田氏に帰服しているが、躑躅ヶ崎館の建設後は有力国人も同様に本拠の要地移転を実施しており、郡内地方を治める小山田氏は中津森から谷村へ、河内地方の穴山氏は南部から下山へと移転している。

武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館

晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃・駿河・上野・遠江・三河などを勢力下に収めるが、武田家の本拠地は一貫して、周辺の要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。

躑躅ヶ崎館は天文2年と天文13年(1543年)に火災に見舞われている。天文2年の火災は『勝山記』に記録されているが、積翠寺郷に屋敷を持つ駒井高白斎『高白斎記』には記されていないことから、規模の小さい火災であったと考えられている。

天文13年(1543年)の火災は、同年正月に近在の武田道鑑屋敷からの出火し、大風により館に飛び火し、類焼している。武田道鑑は武田信成の弟の公信の系統で、祖父の満信は在京奉公をしていたという。道鑑は歌人としても知られ、躑躅ヶ崎館に近在する屋敷を持っていたことから、家格の高い人物であったと考えられている。

この火災により武田晴信は駒井高白斎屋敷へ一時移っているが、同年2月24日には館へ戻っているため、全焼は免れたと考えられている。『高白斎記』によれば、この火災を契機に躑躅ヶ崎館の大規模な改修が行われている。

甲府は要地であったが、1548年(天文17年)には庶民の屋敷建築が禁止されている等、城下の拡大には限界もあったとされる。また、この頃には全国的な山城への居館移転も傾向としてみられた。

1575年(天正3年)の長篠の戦いで敗北したことにより武田家の領国支配に動揺が生じた。武田勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図したが、家臣団から多くの反対の声が上がった。結局、武田勝頼は韮崎に新たな城「新府城」(韮崎市中田町中條)を築き、1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転した。

しかし、まもなく実施された織田氏の甲州征伐の結果、武田勝頼は建築途中の新府城に火を放ち廃城にし、その後は武田氏は天目山で滅亡した。

近世・近現代の躑躅ヶ崎館

1582年(天正10年)の武田氏滅亡後、河内領を除く甲斐一国・信濃諏訪郡を統治した織田家臣の河尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったとされるが、異説として岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたとする説がある。同年6月に本能寺の変が勃発し、秀隆はその後の混乱の中落命する。その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた。

1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されたことで、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。

1705年(宝永2年)に甲府に入封した柳沢吉保は、それまで「古城」と呼ばれていた躑躅ヶ崎館跡を「御館跡」と呼ぶよう甲府市中に発した。吉保は自らを甲斐源氏の後裔と位置付けており、父祖とされるものの権威の正当な顕彰を意味する。

館の構造・遺構

広さは周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定される。

外濠・内濠・空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪・梅翁曲輪(うち、味噌曲輪・御隠居曲輪・梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成)等から構成されると考えられ、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀・馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。
2006年の発掘調査では大手口前面の下部から三日月堀が確認され、正確な年代は不明であるが丸馬出が築かれていたことが判明した。

内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。武田氏から徳川氏・浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂に関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。
『高白斎記』によれば、1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されている。

現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。

遺構として土塁・堀・石垣・虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在する。
そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の息子誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた。

MEMO
整備された大手は、近くにある竜華池か躑躅ヶ崎亭に上ると一望できます。躑躅ヶ崎館は令和12年までの整備計画が策定されていて、北側の発掘調査と整備復元が進行中なので、今後に注目です!

マップ

アクセス

■JR中央本線・甲府駅北口より北へ一本道2.2km
■山梨交通バス「武田神社」行き約8分

■中央自動車道・甲府昭和IC

躑躅ヶ崎館(武田氏館) 周辺スポット

信玄火葬塚

信玄公の遺体を火葬した場所だといわれ、火葬塚とも呼ばれています。
天正元年(1573年)4月12日、信州伊那駒場で53歳の生涯を閉じた武田信玄は、ここに仮埋葬され、その死は3年間 秘密にされたと伝わります。

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大泉寺

武田信虎が、天桂禅長を開山として建てた寺で、信虎の菩提寺です。信虎が信州で没した時、その遺骸を国元に送り、この大泉寺に埋葬しました。
霊廟には、信虎・信玄・勝頼三代の肖像が安置されています。

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躑躅ヶ崎館 周辺宿泊施設

躑躅ヶ崎館 周辺グルメ

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