要害山城【続日本100名城】
要害山城は躑躅ヶ崎館(武田氏館)の緊急避難用「詰城」として機能を持つ城として、武田信玄の父となる武田信虎によって築城された。信虎は武田氏館の周辺に家臣を集住させ、さらに商職人を住まわせて、館を中心とした城下町である甲斐国の府中=甲府を開創した。
武田勝頼が新府城(韮崎市)へ移るまでの62年間、武田氏館跡とともに武田氏の領国支配の本拠地となった山城である。
大永元年(1521)、駿河勢が大挙して富士川をさかのぼって甲府盆地に攻め入ってきたとき、懐妊中だった大井夫人は要害山城に避難し、後の信玄を出産したと伝わる(一説には山裾の積翠寺)。
現在は国の史跡に指定されており、武田信玄生誕の地としても人気がある。
Contents
要害山城の見どころ
■主郭に近くなると複雑かつ連続した曲輪が展開され、幾つもの桝形虎口跡と土塁を見ることができる。
■幾つも竪堀がある中で、本郭裏にある堀切と竪堀はダイナミックで必見!
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■続日本100名城スタンプ
藤村記念館
開館時間:午前9時~午後5時
月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
■御城印
藤村記念館

要害山城 周辺の天気
| 別名 | 要害城、積翠山城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 武田信虎 |
| 築城年 | 永正17年(1520年) |
| 主な改修者 | 武田勝頼、加藤光泰 |
| 主な城主 | 武田氏、徳川氏、加藤光泰 |
| 廃城年 | 慶長5年(1600年) |
| 遺構 | 堀切、竪堀、石垣、虎口、土塁、井戸、曲輪、土橋 |
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レポート

2025年12月:初訪城
歴史
築城は武田信虎時代の永正17年(1520年)6月である。武田氏は前年に居館を石和の川田館(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山が城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれた。
同年には駿河の今川氏勢の武将福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は正室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、大井夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産した。
勝頼期の天正4年(1576年)6月1日付武田家朱印状によれば、武田氏は要害山城から西方に位置する帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)に対して要害城の普請への召し出しを命じており、帯那郷への河除(堤防普請)と他の諸普請の一切を免除している。
天正10年(1582年)3月の織田信長の武田征伐による甲斐武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。文禄年間の修築を示す遺構として穴太積みの石垣が見られる。甲斐国志によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に甲斐は再び徳川氏が領し廃城となった。
史跡指定
本丸(主郭)に至る通路や虎口(枡形虎口)、曲輪、堀切、見張台などの遺構のほか、要所をかためる石垣もほぼ完全に遺存しており、戦国大名武田氏の築いた城郭として、また中世豪族の居住形態を示すものとして極めて重要であるとして、1991年(平成3年)3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定された。
登山口に説明板があり、曲輪、土塁、竪堀や門跡など主要な遺構には案内板が設置されている。
熊城
要害山城の支城として熊城(くまじょう)があり、要害山城の東側をガードするように築かれている。熊城は標高730メートル付近に立地し、一直線上の小規模な曲輪と堀切・竪堀、石垣が遺構として残されているが、その中には連続竪堀や登り石垣状の遺構もある。
マップ
アクセス
■JR中央本線・甲府駅からバスに乗り「積翠寺」バス停下車、登城口まで徒歩15分
■中央自動車道・甲府南ICから20分
■中央自動車道・甲府昭和ICから20分
要害山城 周辺スポット
積翠寺(せきすいじ)

武田信虎夫人がこの寺で信玄公を産んだといわれ、現在も産湯をくんだ井戸や産湯天神が残っています。
信玄公はこの寺で和漢連句の会を開き、その記録が残されています。
昇仙峡(しょうせんきょう)

甲府市の北部に位置する渓谷で、国の特別名勝に指定されている。
長い歳月をかけて削り取られた花崗岩の断崖と四季折々の変化に富んだ姿は日本一の渓谷美と称される。
要害山城 周辺宿泊施設

















