【長野県】上田城

CASTLE DATA FILE.97
登城日:2026年2月5日
交通手段:しなの鉄道線・JR線「上田駅」徒歩15分
ステータス:日本100名城・国指定史跡
ジャンル:梯郭式 平城
遺構:櫓・石垣・土塁・堀
スタンプ:上田市観光会館で押印
御城印:真田神社と上田市観光会館で購入

真田氏が築き、2度も徳川軍に勝利した城

信州遠征の2城目は上田城。小諸駅から上田駅までは、しなの鉄道に乗って約20分で到着できます。

上田城にはワタクシが好きだった大河ドラマ「真田丸」が放送されていた2016年に一度訪城しています。しかし、その頃は城に関してほぼ無知だった為、今回は小諸城と同様に深掘りして見て周るために再訪城することにしました。

上田駅からは歩いて15分ほどで上田城に着きます。

上田駅には真田家の家紋、六文銭が大きく飾られています。

この他にも街の至る所に、とにかく真田家の家紋を目にします。
真田家は主に真田幸隆・真田昌幸・真田信之&信繁(後の幸村)の親子3世代が歴史の表舞台に出てきます。

真田幸隆は武田信玄の家臣として活躍。攻め落とすのが困難だった「砥石城」を調略で奪取するなど、真田家の基盤を築いた武将です。

そして、上田城を築城した幸隆の三男 真田昌幸。
武田家滅亡後、織田・徳川・上杉・北条といった大国に囲まれながら、巧みな外交と軍略で生き残りました。
この上田城で2度にわたって徳川軍と激突した上田合戦では、2度とも徳川軍を退けたことで、一気に戦国を代表する武将となりました。

駅前には大坂の陣で活躍した武将の1人、真田幸村の銅像!

真田信之と信繁(幸村)は昌幸の息子達になります。

関ヶ原の戦いでは、家を存続させるために兄・信之は徳川方(東軍)、父・昌幸と弟・信繁は石田三成方(西軍)に分かれて戦ったことは有名な話。

特に真田幸村は「大坂の陣」で真田丸を築いて奮戦。徳川家康をあと一歩まで追い詰め、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と絶賛された超人気の武将です。

オール真田家の、このアングルは最強です。
真田幸村推しの方にとっては、上田市は聖地のような場所です。

ワタクシも大河ドラマ真田丸を見て、堺雅人さんが演じた真田幸村がカッコよすぎて好きになり、まだ歴史に詳しくない時期でしたが、2016年に上田城まで来ました。

街と歴史が一体となったこの雰囲気、とても好きです。

現在の上田城は上田城公園として整備されており、城内には幾つかの入城ルートがあります。
ワタクシは尼ヶ淵の広場から入城します。

早速 目に飛び込んでくるのは南櫓と西櫓。ちなみに城郭に沿って新幹線の線路が走っているので、この櫓2棟の景色は新幹線内からも見ることができます。

当時はこの尼ヶ淵と呼ばれる崖の辺りまで千曲川が流れていました。
現在は新幹線の線路に沿う形で若干離れた場所を流れています。

尼ヶ淵の広場から見た西櫓。
1626年に真田氏の後に城主となった、仙石氏の時代に創建した貴重な現存建築物になります。

尼ヶ淵の石垣下部で興味深い箇所が確認できます。
自然石を使った野面積みの石垣の中に、算木積みの箇所があります。
何かしらの理由で増築し、拡張したと考えられます。

西櫓の脇から主郭に向かう階段の道があるので、その道から登っていきます。
西櫓の脇に突如石垣が出現。

この箇所は二の丸西側と本丸を繋ぐ土橋で、石垣は土橋の部分にのみ積まれています。

真田氏時代の上田城は徳川家康によって徹底的に破壊された為、仙石氏は真田氏時代の縄張りを基本として、虎口などの重要な箇所を石垣に変更しました。

登城路を振り返っての一枚。
堀切のように本丸と二の丸は深く掘削され分断しています。
この道は当時は無かったと思われますが、ダイナミックな堀の中を間近で見ることができます!

先ほど下から見上げた土橋からのショット。
今はアスファルト舗装されていますが、道の両側が堀となっており、土橋となっています。
整備されたことで姿は変わっても、形状は完全に当時のままです。

土橋の右側は水堀となっており、本丸は二の丸よりも高くなっており攻撃しやすくなっています。

1626年に創建後、建て直した記録がないことから当時のまま現存していると考えられています。

1階は桁行9.85m、梁間7.88m、2階は桁行8.64m、梁間6.67m。シンプルな造りですが、寒冷地特有の下見板張りの木と白漆喰のコントラストに見惚れてしまいます。

西櫓があるこの場所には本丸西虎口があり、櫓門が本丸へのルートを防備していました。
手前側の土の部分にも石垣があり、西櫓のような二重の櫓があがっていました。

本丸西虎口の模型写真。
右側の櫓が現存している西櫓。90度折れ曲がって櫓門となります。

本丸西虎口に残る、櫓門の痕跡。
石垣上部に切り欠きが二つ確認できます。この箇所に櫓門の横架材が乗っていました。

明治の廃城令によって破壊された上田城ですが、この場所に大きな櫓門があった確かな痕跡は残っています。

本丸を囲む土塁。高さは3m〜4mくらいでしょうか。かなり高めの土塁です。

土塁は整備されており、登れるようになっています。

本丸全体をこの高い土塁が囲んでいます。
現在は広場になっていますが、当時は西櫓と同じ規模の櫓が7棟 築造されました。

本丸北東は隅欠(すみおとし)と呼ばれる土塁のクランクがあり、2つの櫓がこの土塁の上に建っていました。
現在は心柱の礎石だけが残ります。

本丸土塁の上を歩くと、本丸東虎口の北櫓を目の前で見ることができます。
北櫓も江戸時代から残る櫓ですが、明治の廃城令で一度、別の場所に移築されました。

さらに、本丸には真田神社が鎮座しています。
「真田」「仙石」「松平」の歴代城主を御祭神とした神社です。
御城印は真田神社で頂くことができます。

神社の本殿の裏手にあるのが真田井戸。
本丸唯一の井戸で、深さは16.5mもあります。
この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていたという伝承があります。

そして真田井戸の前にあるのが、本日2体目の真田幸村像。
上田城にいた頃と思われる、若き日の幸村像となります。

真田神社から西櫓の入口に行けるのですが、冬季は閉鎖されています。
真田神社から見た尼ヶ淵。現在は広場になっており、切り立った崖になっています。
当時はこの下を千曲川が流れていました。

真田幸村の大兜と本丸東虎口。

真田家で一番人気があるのは、やはり真田幸村。豊臣軍と徳川軍が激突した大坂の陣で活躍した武将と言えば、真っ先に出てくるのはやはり真田幸村です。

真田神社の前にあるのが本丸東虎口。
北櫓、櫓門、南櫓が本丸の東側を防備します。

外に出て土橋からのショット。
本丸東虎口の櫓門は1994年に木造で復元されました。横幅、高さ共に12mで風格が漂う門です。

右から南櫓、櫓門、北櫓。そして二の丸と本丸を繋ぐ土橋。
南櫓と北櫓は現存櫓ですが、日本が辿ってきた城郭の歴史を象徴する櫓です。

明治の廃城令で全国の城は一部を除いて取り壊されたり、安い金額で売却されました。
上田城も同じく西櫓だけが残り、南櫓と北櫓は移築され、他の建築物は全て取り壊されました。
移築された櫓は上田市内の遊郭の建物として使われ、古写真が今でも残っています。

まさか遊郭で使われていたとは驚きの歴史です。
市民の熱意で昭和に買い戻されて、再移築という形で元のこの位置に復元されました。

鉄砲狭間の付いた遊郭って・・・ある意味すごい。

南櫓は西櫓とほぼ同じ大きさ、同じ造りをしています。

櫓門脇の石垣にある鏡石は「真田石」と称され、高さ約2.5m、横約3.0mほどの巨石です。

天正11年(1583)、真田昌幸が上田城を築くときに据えられた城内で最も大きな石です。真田信之(幸村の兄)が松代へ移る時に、この石を父の形見に持って行こうと したが動かなかったという伝承があります。

実際は仙石氏の時代に造られた石垣と言われていますので伝承と思われますが、上田の地の方々の真田氏への強い思いが伝わります。

圧倒的な存在感の本丸土塁と水堀

本丸北東から見た内堀と本丸土塁。
上田城の宣材写真は、ほぼ100%で櫓門か尼ヶ淵から見た櫓の写真なので、石垣の城というイメージを持ってしまいますが、上田城は土造りの美しい城です。

虎口や櫓台などのピンポイントで石垣が使われていますが、基本的には土で造られています。

コーナー部分がクランクしているのは、横矢掛かりかなと思ったのですが、隅欠(すみおとし)という鬼門除けで設けられました。真田氏の時代からこの隅欠は造られていたとされています。

本丸北側の水堀と本丸土塁。
上田城は本丸を起点として三方を二の丸が囲んだ梯郭式の縄張りなので、この水堀が本丸の東・北・西を囲み、南側は尼ヶ淵の天然の要害となっています。

二の丸東側から一度 城外に出て二の丸の空堀を見にいきます。
現在、上田城は至る場所で工事をしており、上田城再生計画が進行中。

二の丸東側にも市民会館を解体し、兵を駐屯させるための武者溜まりの復元を目指しています。現在は仮囲いをされて解体中でした。

二の丸橋の石垣。
現在は石垣のみが残りますが、形状から見ると櫓門があったと思われます。
もしくは二の丸は未完のまま明治時代を迎えたようなので、造る計画はあったが築造されなかった可能性もあります。

本丸と二の丸東側を繋ぐ二の丸橋。
当時は木橋で形成されていましたが、公園化に伴ってコンクリートの橋に架け替えられました。

廃城令後 上田城の意外な使い道と遺構保存の仕方

二の丸の堀底は整備されていて、歩くことができます。
かなり深い空堀となっており、城郭の三方を堀で防備しています。堀底を歩くことができるのは二の丸東側の堀だけなので、時間があれば是非歩いて頂きたいスポット。

そして、何故この堀底だけが歩けるように整備されているのか。

写真左側はコンクリートで形成されています。実はこの堀底には昭和2年に線路が敷設され列車が走っていたのです。
左側がちょうど停車駅でした。歴史が分かると確かに駅に見えてきます。

ここに列車が走っていたと考えると、二の丸橋がトンネルになっている理由も納得です。
廃城令後、市街地化が進んだことで堀は埋められることが多かった中で、線路になったことで逆に埋められることなく、堀の形状が守られたという見方もできます。

現に二の丸北側の堀は破壊されています。

堀底を北方面に進むと、土塁の上に平和の鐘が現れます。
平和の鐘が建つ石垣は、先ほど通過した二の丸橋の前にある虎口の石垣です。

堀底から180度折り返して土塁の上を歩き、下から見上げた平和の鐘を見に行きます。

土塁からは雄大な山々を見ることができます。
テニスコートは櫓復元整備のために撤去工事が行われていました。
今後の上田城が非常に楽しみです。

1702年に鋳造された鐘は、上田藩が時刻を伝えたとされる鐘で、現在は市街地化で失われた三の丸にありました。
江戸時代から続く時の鐘は、世界大戦中に供出され失われました。

その後、昭和期の1972年に市民の協力で復元され、今の場所に移築されました。その歴史から平和のシンボルとなっています。

二の丸の北側は駐車場や児童施設、子供が遊ぶ遊具のある公園、陸上競技場などに変貌を遂げています。
建物や堀は破壊されていますが、ひっそりと遺構が残っているので、意外と注目スポットです。

二の丸の北虎口跡には石垣を確認できます。
一部しか残っていなかった石垣を、発掘調査を行い現在の姿に復元されました。

礎石も発見されているので、ここには櫓門を建造する予定だったと考えられています。
実際は築城中に仙石忠政は病死したことで、この場所には櫓門が建つことはありませんでした。

北虎口からは陸上競技場。
この陸上競技場はかつて百間堀という巨大の水堀でした。
堀をそのまま活用して競技場になっているので、ある意味ではかつての形状のまま残っています。

百間堀の脇には陸上競技場に入る為の細い路地があります。
競技場の中には入ることはできませんが、この細い路地は遺構のポイントです!

右側が百間堀、左側が北虎口前の土橋です。北虎口前の土橋は石垣が積まれた貴重な遺構です。

この土橋に設けられた水抜き石樋も見逃せない遺構。
石垣から飛び出した石材は1702年に仙石氏が修復工事を行った際に、木の樋から石の樋に変わりました。
ここから百間堀に水を流していたと考えられます。

石がズレることがないように、石同士を切り欠いてジャストフィットさせています。
この細かな技術を楽しむことができたら、間違いなくお城マニアの仲間入りです。

当時は機械もない中で、知恵と工夫と人力によって造られていたことを考えると、巧みな技術に感動します。
土橋は百間堀と本丸北側の堀を隔てるように造られていました。

百間堀は姿を変えて形を残していますが、反対側は公園や児童施設となり堀は破壊されてしまいました。

しかし、微かな堀の片鱗は確認することができます。公園のフェンスを沿うように、堀の落ち込み部分を見ることができます。
失われた遺構は残念ではありますが、市街地などに埋もれた遺構はマニア心をくすぐるものがあります。

続いて城内から二の丸西虎口に向かいます。

公園入口となっている二の丸西虎口も土橋跡になっており、橋の両側は堀の片鱗が残ります。

土橋の左側。
野球場になっていますが、よく見ると不思議な造りをしています。

野球グラウンドが地上面よりも低いのです。この場所は、百間堀から繋がった巨大な水堀でした。
陸上競技場と同じく、堀底に野球グラウンドを造ったので、このような形になっています。

そして、ポイントは観客席。魔改造によって土塁の傾斜に沿って観客席が造られています。

土橋の右側には堀が残ります。二の丸は堀の奥でクランクしています。

何気ない普通の道。
左側はクランクした二の丸、右側は小泉曲輪があったとされる場所で現在は体育館。

ここも堀の一部を改造して道路になっています。
しかし、目線を変えれば何気ない道に遺構の面影を感じることができます。

二の丸土塁の上から見た体育館。
対面にあるグラウンドと体育館が小泉曲輪跡で、土塁下を貫通している道路は、当時は堀であったと考えられます。

土塁上からの景色。
天気にも恵まれた素晴らしい日です。

再び尼ヶ淵から東側へ移動します。
夕方になり少し冷え込み空気が澄んできました。
写真は西櫓。

下から見上げる南櫓も美しい。

本日 3体目の真田幸村像。
二の丸橋の前の一般道を渡ったところに上田市観光会館があります。

上田市観光会館に飾ってあった甲冑。
なんと大河ドラマの真田丸仕様のスペシャルバージョン甲冑。
真田丸を今でも見ているワタクシとしては痺れる逸品。

1Fの売店には真田神社とは別バージョンの御城印や、日本100名城カードも売っています。

すっかり夕方になってしまいました。
上田市観光会館の裏には上田市立第二中学校や、上田高校があります。

現在は学校になっているあたりが、上田城の三の丸でした。
ほぼ垂直に切り立っている土地の形状は、おそらく当時の名残かなと思われます。

グラウンドと住宅地の間には謎の切れ込みがあります。

気になって近くに寄ってみました。
これって堀跡では?と考えながら、ネットで昔の城郭絵図を調べたら、この辺りには当時 堀がありました。

グラウンドや住宅を造るのに、わざわざこんな鋭い崖を作る必要性も無いから、遺構の形状を生かしたのかなと考えます。
あくまで個人的な憶測です。

上田高校のグラウンドから、学校の正面に移動。
高校なのに土塁と土塀、そして明らかな水堀を発見。
現在の上田高校がある場所は、元々 上田藩主の居館がありました。

門もそのまま活用されています。
この土塁や豪は真田氏の時代に造られたと伝わります。
本丸からはだいぶ離れていますが、真田幸村の兄となる信之は、破壊された本丸ではなく、この三の丸を城郭の中心部としました。

時間が遅くなり暗くなったので、次の日の朝に再度写真を撮りにきました。

薬医門形式の立派な門。
近くに寄ることができませんが、ここからでも十分感じる格式の高さ。
この門を毎日通過して通学する学生さんが羨ましい。

約9年以上ぶりの上田城でしたが、今回はかなり深掘りして楽しむことができました。少しの知識があれば、少し違った角度で城を見ることができれば、城めぐりはもっともっと楽しくなります。

食事も楽しみの一つ。真田氏一色の街の雰囲気も最高でした。

約4時間ほど見て周りましたが、それでも時間が全く足りませんでした。城内の市立博物館も行きたかったのですが、次回に持ち越しです。

今晩は上田城近くの八木旅館で一泊。
旅館近くにある大祭さんで食事。

数あるメニューの中で、野菜の巻き串が本当に美味しかった。
地酒も楽しめる素晴らしいお店でした。

エネルギーをチャージして、明日は同じ真田氏ゆかりの松代城を目指します。