武蔵松山城

松山城は比企丘陵の先端に建てられた平山城。ふもとを流れる市野川を天然の堀として、その天然の要害から不落城とも言われた。
戦国時代には上杉謙信、武田信玄、小田原北条氏などの名将が激しい攻防を繰り広げた城であり、西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成されていた。

2008年(平成20年)、菅谷館(嵐山町)跡、杉山城(嵐山町)跡、小倉城(ときがわ町・嵐山町・小川町)跡とともに「比企城館跡群」の名称で国の史跡に指定されている。

武蔵松山城の見どころ

歴史ポイント

松山城は軍事的に重要な位置を占めており、扇谷上杉氏と古河公方足利氏、北条氏との間で激しい争奪戦が展開されました。永禄3年 関東地方に出兵した上杉謙信によって攻略されて以来、上杉方の前線拠点となっていました。
その後、北条氏康は松山城を奪還すべく、3万5千の兵で包囲。北条方には同盟関係にある武田信玄も1万5千の援兵を率いて加わり、奪還に成功しています。
天正18年、豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家や上杉景勝らの豊臣軍によって攻め落とされ、北条氏は滅亡に向かいました。

遺構ポイント

現在の武蔵松山城は北条氏が大改修したと考えられている遺構が良好に残っています。
各曲輪と深い横堀で分断して土橋で接続。虎口前には馬出も設けれ、北条氏築城術を見ることができます。
特に三ノ曲輪と四ノ曲輪を分断する横堀は、深くクランクして十字攻撃できる防御性の高い設計になっています。堀底を歩くこともできます。
山麓の岩室観音堂の裏手は搦手と伝わり、岩を切り裂いた切通になっているので必見です。

虎口

空堀

曲輪

土橋

伝搦手口

馬出

武蔵松山城カルテ

■攻略のレーダーチャート(ポイント)

■ポイント

  • 山全体が城塞化しており、空堀や曲輪が良好な形で残存している
  • 名武将が争奪した関東では、貴重な戦国時代の城なので歴史ポイントも高い
  • 最寄りの東武線「東松山駅」からはやや距離があるが、レンタサイクルもありバスも走っている。

平均:82/100 ポイント
合計:490/600 ポイント
おススメ度:★★★★★☆

■見どころバロメーター

■埼玉県 主要城郭との比較(ポイント)

※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー

武蔵松山城の御城印

御城印販売

■武蔵松山城に隣接した「吉見百穴」の受付にて販売

武蔵松山城 周辺の天気

城郭構造梯郭式平山城
天守構造なし
築城主上田友直
築城年応永6年(1399年)
主な改修者上杉朝定、北条氏康、松平家広
主な城主上田氏、難波田氏、扇谷上杉氏、
太田氏、桜井松平氏
廃城年慶長6年(1601年)
遺構空堀、土塁、土橋、虎口、井戸
指定文化財国の史跡

写真で見る武蔵松山城

武蔵松山城 三ノ曲輪-四ノ曲輪空堀
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武蔵松山城 三ノ曲輪-四ノ曲輪空堀
武蔵松山城 三ノ曲輪-四ノ曲輪空堀
武蔵松山城 四ノ曲輪-腰曲輪空堀
武蔵松山城 四ノ曲輪から見た空堀
武蔵松山城 西側登城路
武蔵松山城 本曲輪-二ノ曲輪空堀
武蔵松山城 本曲輪-二ノ曲輪空堀
武蔵松山城 本曲輪-二ノ曲輪空堀
武蔵松山城 本曲輪-搦手虎口
武蔵松山城 (伝)搦手口
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武蔵松山城の歴史

戦国時代

室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国中原の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された。松山城を築城したと考えられる上田氏は当初扇谷上杉氏に部将として属したため、この城は東方の下総国古河に本拠を構える古河公方および北方の上野国から武蔵国中央部への進出を狙う山内上杉氏に対する前線拠点として機能した。

後に北条氏の勢力が相模国から武蔵国に伸張してくると、扇谷上杉氏と山内上杉氏・古河公方の三勢力の間で和睦が成立し、南方より侵攻してくる北条氏に対する拠点となった。天文6年(1537年)には河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらにその余勢を駆った北条勢によって松山城も攻撃を受けたが、城主難波田憲重らの活躍で撃退に成功した(松山城風流合戦)。

この結果、松山城は河越城を失った上杉朝定の居城となり、威信をかけた拡張工事が行われた。しかし天文14年(1545年)、河越夜戦での河越城奪還の失敗と朝定および難波田憲重の敗死によって扇谷上杉氏が滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡った。
同年に難波田憲重の婿であった上杉方の太田資正が奪回し、同じく縁戚であった上田朝直が城代になるものの、その上田朝直が北条氏に寝返ったため再び北条方の城になった。なお、太田資正は北条方との戦いで実子を失っていた難波田憲重の婿養子として松山城主の地位を継承していたとする説があり、その後実家の太田氏の家督を継いで岩槻城に帰還したものの、引き続き松山城の城主としての立場を主張することになったとされている。

永禄4年(1561年)、上杉謙信が奪取して岩槻城主の太田資正を城代にする。しかし、永禄6年(1563年)に北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、北条氏のもとに戻った(生野山の戦い)。この合戦の影響が房総にも飛び火して第二次国府台合戦へと発展した。
この合戦以後松山城は一時北条氏の直轄となったものの、元亀年間以後は一貫して北条氏家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、同氏は松山領と呼ばれる比企地方一帯を支配下に置いた。

安土桃山時代

天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による小田原征伐が行なわれた。城主上田憲定は小田原城に籠城したため、代わって山田直安以下約2,300名が松山城に籠城、前田利家・上杉景勝の軍を主力とする大軍に包囲されて落城した。当時の豊臣方の陣容を描いた布陣図には、真田昌幸・直江兼続らの名前も見える。

徳川家康の関東入国とともに、松平家広が入城して松山藩を立藩。慶長6年(1601年)に跡を継いだ松平忠頼が浜松藩に移封されると空城になった松山城は廃城となり、この地域は川越藩の藩領となった。
家広の入城から廃城までの時期に交通の便が考慮され、搦手にあたる城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたとされる。
本来ここは松山城防衛の要となる方角であり、争奪戦の相次いだ北条氏時代までは橋が存在しなかった。

江戸時代

幕末の1867年(慶応3年)になると川越藩主であった松平直克が前橋藩に移封となり、飛び地となった比企・入間地域6万石余を統治するための拠点が必要になったが松山城は使用されず、西に約1.7キロメートル離れた平地に松山陣屋が設置された。

ナビゲーター

MEMO
武蔵松山城には面白い逸話があります。武田軍と北条軍が共に武蔵松山城を攻めた際、武田信玄は鉱業技術者である「金山衆」を動員し、城山に坑道を掘って爆破する「もぐら戦法」という名の戦略を実行しようとしたという伝承が残っています。

武蔵松山城の構造

ふもとをめぐる市野川を天然の堀として利用して丘陵上に建てられた平山城。その天然の要害から不落城とも言われた。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成された。

大正14年(1926年)に「松山城址」として県の史跡に指定された城郭西部の約16ヘクタールに、高低差と大規模な空堀を利用した技巧的な曲輪が集中する。この部分は通称「城山」と呼ばれ、山頂の本丸から東方向の尾根に沿って二の丸、春日丸、三の丸が梯郭式に配置され、その周囲を帯曲輪や腰曲輪が囲む構造。これらの曲輪は、基本的に低い土橋によって連結されている。

遺構

「城山」には空堀の遺構が良好に保存されており、城郭主要部の面積の50パーセント余りにも上る部分を空堀が占めるという特徴的な縄張りを充分に観察することができる。

大正年間の史跡指定に漏れた城郭中央部には、軍勢の駐屯に適した大規模で単純な構造をした曲輪が築かれていたが、関越自動車道造成のため昭和45年(1970年)に行なわれた採土によって遺構が失われた。現在この場所は武蔵丘短期大学の敷地となり、同短大の建物とグラウンドが存在する。

発掘調査

松山城では発掘調査が今までに2回実施されている。

一次調査は平成15年(2003年)11月18日から同年12月24日に「惣曲輪(そうぐるわ)」で、二次調査は平成16年(2004年)5月19日から同年7月14日に「本曲輪」で実施された。調査の結果、火災が生じ(炭化物や焼土や被熱した土器の検出により判明)、その後に盛り土による造成(造り替え)が行われていることが惣曲輪では最低でも1回、本曲輪では最低でも2回あることがわかった。
しかし、火災や造成の年代は今のところ特定されるには至っていない。出土遺物の年代は惣曲輪と本曲輪の両方とも、15世紀後半から16世紀中頃のものが多く、後北条氏段階の16世紀後半のものは少なかった。

マップ

アクセス

■公共交通機関
・東武東上線「東松山駅」から徒歩で約25分
・東武東上線・東松山駅から自転車で約10分

■自動車
・関越自動車道「東松山IC」から約10分
※城郭に隣接する「吉見百穴」に無料駐車場あり

ナビゲーター

MEMO
最寄り駅の東武東上線「東松山駅」の駅構内には観光案内所があり、レンタサイクルや手荷物預かりができるので便利です!→東松山市観光案内所

武蔵松山城 周辺スポット

吉見百穴

吉見百穴は古墳時代の後期~終末期(6世紀末~7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定されました。
吉見町を代表する史跡で、現在確認できる横穴の数は219基あります。武蔵松山城に隣接しているので、併せて観光できます。

→マップ

上田朝直建立青石塔婆

戦国時代の元亀2年(1571年)、時の松山城主上田能登守朝直入道安独斎が命を捧げてくれた一族や家臣の冥福を祈って建立したもの。朝直は、天正10年(1582年)に90歳の高齢で他界するまで、多難な戦国の世を生き抜いた名将です。

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武蔵松山城 周辺宿泊施設

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