愛媛県

「えひめ」は「うるわしい女神」といった意味合いの神名である。「えひめ」に「愛媛」という漢字を宛てた最初の例とされる。

全国で唯一の神名をつけた県である。神名を採用したことは明治時代の王政復古の風潮と合致していたものと見られる。

1600年の関ヶ原の戦いののち、伊予国40万石は加藤嘉明と藤堂高虎によって両分された。加藤嘉明は松山城を築き、藤堂高虎は今治城を築いて、それぞれ領国支配の拠点とした。

ただし、17世紀前半に両家は伊予国から転出して大規模な藩領は分割された。17世紀後半までには、松山藩(15万石)を最大の藩として、「伊予八藩」が成立し、以後廃藩置県まで藩主家の交代もなく安定した体制となった。

愛媛県において地域ごとに多様な文化が発展したこと、あるいは県域の一体感が薄いと言われる事と結び付けて語られる。

愛媛県

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松山城【日本100名城】: 33.845661, 132.765731
今治城【日本100名城】: 34.063383, 133.006850
大洲城【日本100名城】: 33.509571, 132.541130
宇和島城【日本100名城】: 33.219740, 132.564664
湯築城【日本100名城】: 33.848082, 132.786759
可後森城【続日本100名城】: 33.225224, 132.708390
能島城【続日本100名城】: 34.182953, 133.080997
西条陣屋: 33.920296, 133.179896
川之江城: 34.013992, 133.567743
吉田藩陣屋: 33.282224, 132.538679
松葉城: 33.374710, 132.509623
黒瀬城: 33.359693, 132.505460
来島城: 34.118775, 132.969080
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松山城【日本100名城】
松山城【松山市】

松山城は現存12天守のひとつであり、日本三大平山城や日本三大連立式平山城にも数えられる名城。数々の建築物が現存しており、黒船来航の翌年に落成した天守は江戸時代最後の完全な城郭建築として有名である。



遺構:天守・櫓・門・塀・井戸・石垣・土塁・堀

国の重要文化財:大天守・野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟。戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟。筋鉄門東塀など塀7棟。

復元建築:小天守・北隅櫓・十間廊下・南隅櫓・太鼓櫓・筒井門・太鼓門・乾門・艮門東続櫓など
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今治城【日本100名城】
今治城【今治市】

築城名人の藤堂高虎が築いた城で、日本初の層塔型天守とされている。三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は港(舟入)を備え、海から堀へ直接船で入ることができる日本屈指の海城だった。



遺構:石垣・堀

復元建築:模擬天守・鉄御門・多聞櫓5棟・石垣
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大洲城【日本100名城】
大洲城【大洲市】

藤堂高虎が近世城郭として整備。藤堂高虎は宇和島城とほぼ同時進行で大洲城を普請した。1609年に脇坂安治が入城。ふたりの時代に天守をはじめとする建造物が造営されている。2004年に主に市民による寄付によって天守が木造復元された。



遺構:櫓・石垣・堀

国の重要文化財:台所櫓・南隅櫓・ 高欄櫓・苧綿櫓

復元建築:天守・多聞
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宇和島城【日本100名城】
宇和島城【宇和島市】

伊達政宗の長男が初代藩主を務めた宇和島伊達藩の居城。縄張りは築城名人の藤堂高虎によるもの。天守は現存12天守の一つで、小さめながら破風なども備えた優美な姿である。



遺構:天守・門・石
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湯築城【日本100名城】
湯築城【松山市】

湯築城は河野氏によって築城された城。豊臣秀吉による四国征伐の後は小早川隆景や福島正則が城主となる。正則が国分山城に居城を移した際に廃城となる。現在は公園となっており、湯築城資料館が建てられているほか、堀や土塁が残る。



遺構:土塁・堀
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可後森城【続日本100名城】
可後森城【松野町】

河後森城は1614年に伊達秀宗が宇和島藩を創立した際に、付家老の桑折氏が居城した城。藤堂高虎の時代には、河後森城の天守が板島城(現在の宇和島城)に移築されたという伝承が残っている。

遺構:曲輪・空堀

移築建築:松野町内の永昌寺に城門が移築されている

 
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能島城【続日本100名城】
能島城【今治市】

能島城は「日本最大の海賊」と称された三島村上水軍のひとつである能島村上氏の拠点として築城。1588年に豊臣秀吉が出した海賊停止令により、能島城は廃城となり、さらに江戸時代以降は無人島となったので、逆に城塞遺構はよく保存されている。



遺構:岩礁ピット
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西条陣屋
西条陣屋【西条市】

西条陣屋は一柳氏が築いた陣屋で、西条藩の藩庁として使われた。一柳氏が改易されたのちは徳川頼宣の次男で、徳川家康の孫にあたる松平頼純が藩主となり、約200年の間、松平氏が納めて明治維新を迎えた。現在、薬医門形式の大手門が現存しており、当時のまま腰巻土塁や水掘が残っている。

遺構:大手門・腰巻土塁・堀
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川之江城
川之江城【四国中央市】

南北朝時代に河野氏の砦のひとつとして、土肥義昌が築いた城。遺構は本丸付近に石垣が一部残るのみ。現在は城山公園として整備されており、川之江市制施行30周年記念事業として、本丸跡に模擬天守が再建されている。



遺構:石垣

復元建築:天守(模擬天守)・櫓
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吉田藩陣屋
吉田藩陣屋【宇和島市】

宇和島藩主 伊達秀宗の五男宗純は、十万石のうちより三万石を分知され、吉田藩を立藩、居館を吉田の地に定めた。以後200年、吉田伊達氏9代にわたる居館として領内外にその存在を誇示してきたが廃藩後数年ならずして本館が撤去。今はその面影を見ることはできない。

遺構:井戸・戸平門跡
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松葉城
松葉城【西予市】

松葉城は西園寺氏の約170年間にわたる居城で、19代・西園寺実充の代に黒瀬城に居城を移したあともその支城として使われた。現在の城址には本丸跡に祠があり、土塁や石積、切岸などの遺構が残っている。

遺構:曲輪・空堀・土塁・井戸
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黒瀬城
黒瀬城【西予市】

伊予の戦国大名、西園寺氏の居城。土佐一条氏、長宗我部氏、豊後大友氏と戦いましたが、1584年に長宗我部元親に臣従すると、1585年の豊臣秀吉による四国攻めでは戦わずして小早川隆景に降伏。現在は土塁や堀切、空堀などの遺構が残っている。

遺構:曲輪・石垣・井戸
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来島城
来島城【今治市】

来島城は村上水軍の根拠地のひとつ。周囲約1kmの来島全土を水軍要塞化した城で、村上吉房によって築かれた。櫓跡の石垣、矢竹、古井戸などが残り、また島の北側にある岩礁には桟橋を支えていた柱の穴(ピット)が無数に現存している。

遺構:石垣・岩礁ピット