余部丸岡城

丸岡城(まるおかじょう)は、京都府亀岡市余部町古城(旧・丹波国桑田郡)にあった中世の日本の城。

八上城主・波多野氏に従った福井因幡守貞政が城主をつとめた城である。

織田信長の命を受け丹波攻略に乗り出した明智光秀は1577年(天正5年)に降伏を勧告しますが、福井氏はこれを拒んだため、翌年光秀によって攻められ、福井氏一族は滅亡しました。その後、光秀が拠点として使用したとも伝えられており、江戸時代の1654年(承応3年)に廃城となった。

現在城址は西岸寺の境内となっており、城址碑と案内板が建てられている。

余部丸岡城の見どころ

■遺構はほぼ残っていないが当時の城郭の地形は若干残っている。
■当初城郭だった西岸寺からは亀岡市を一望できる。

御城印

■西岸寺にて御城印を購入

余部丸岡城 周辺の天気

別名余部城、過部城、岡山城、円岡城
城郭構造平城
築城主不明
築城年不明
主な城主明智光秀
廃城年不明
遺構本丸、堀、空堀
指定文化財なし

写真で見る余部丸岡城

余部丸岡城 大手門跡
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余部丸岡城 大手門跡
余部丸岡城 城郭入口
余部丸岡城 西岸寺からの景色
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レポート

概要

丸岡城は現在の西願寺付近の台地の上にあった城で、今も「古城」「古城浦」「政所」などの小字が残る。

かつては城のすぐ北を大堰川の旧河道、南を曽我谷川の旧河道が走り、東側もその二つの川をつないで、三方向が天然の堀で囲まれていた。また、台地の続く西側には2本の横堀が設けられていた。

沿革

築城された時期はわかっていない。

応仁・文明の乱の際、丸岡城は東軍の拠点となっていた。文明元年(1469年)6月、東軍の野田泰忠や安富又次郎が「余部之城」へ入っており、同年10月、丹波に侵攻する西軍を防ぐため、二人は再び「余部之城」に入っている。

戦国時代後期には、波多野元秀が長尾大和守に対し、「余部」で敵と戦い、「入城」したことを賞している。この時、丸岡城が平城だったためか「無要害」と記している。

天正3年(1575年)6月、織田信長の命を受けて、明智光秀が丹波攻略を開始した。光秀は後に亀山城を築城し、天正6年(1578年)にはそこを前線基地としているが、当初は余部を拠点としていた。天正3年(1575年)8月の小畠永明宛ての書状の中で、光秀は「馬路・余部在城之衆」に指示を伝えたことを記しており、「在城」という言葉から丸岡城が使用されていたことがわかる。

また、年未詳の書状において、光秀は永明に余部の近くに来るよう命じ、別の書状では、国衆から取った人質を余部に連れてくるよう永明に伝えている。預かった人質が居住できる環境があることから、丸岡城は光秀にとっての拠点的城郭だったと考えられる。

『亀山由来記』によると、丸岡城の遺構はしばらく残り、承応3年(1654年)になって丸岡城の天守・土蔵を取り壊し、堀を埋めたという。

マップ

アクセス

■JR山陰本線・亀岡駅から徒歩約15分

■京都縦貫自動車道・亀岡ICから10分

余部丸岡城 周辺施設

丹波亀山城

明智光秀によって、丹波統治の拠点として築かれた城。本能寺の変の際に、光秀が出陣したのもこの城である。

徳川家康はさらに天下普請により西国大名に命じ近世城郭として修築させて巨大な近世城郭に生まれ変わった。

丹波亀山城データベース

余部丸岡城 周辺宿泊施設

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