菅谷館【続日本100名城】

菅谷館(菅谷城)は鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡と考えられてる。その後、山内上杉家の家臣である太田資康が扇谷上杉家の拠点である河越城に対するおさえとして城主を務めた。土塁や空堀、全体的な曲輪配置が良好な状態で残っているが、現在の菅谷館跡はこの戦国初期に改修された姿だと考えられている。

国の史跡に指定されており、三ノ郭跡には埼玉県立嵐山史跡の博物館が建てられており、全体的に綺麗に整備されている。

菅谷館の見どころ

■中世城郭の魅力が全て詰まったような城跡なのに、基本的には平地なのでとにかく周りやすい!土造りの城、中世城郭ビギナーの方も存分に楽しめるし、攻城しやすいのでおススメです。

■空堀や土塁の玉手箱のように城郭全体でハイレベルな遺構が残っています。特に本郭を囲む土塁と空堀は釘付け間違いなし!深い空堀、高い土塁、そして何よりもクランクした出桝形土塁は必見です。

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■続日本100名城スタンプ
・嵐山史跡の博物館 受付付近

■御城印
・嵐山史跡の博物館 受付

菅谷館 周辺の天気

城郭構造平城
天守構造なし
築城主不明
築城年不明
主な改修者山内上杉氏、後北条氏の可能性
主な城主畠山重忠、山内上杉氏、北条氏の可能性
廃城年不明
遺構土塁、横堀、虎口、土橋、

写真で見る菅谷館

本郭虎口と土橋
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本郭虎口と土橋
本郭土橋から見た空堀
二ノ郭出桝形(7)
出桝形土塁
二ノ郭(北西)空堀
本郭土塁
都幾川(6)
三ノ郭 空堀
外部空堀と土塁
正拈門と木橋
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レポート

沿革

鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡である。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりである。

元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。

長享2年(1488年)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われる。

その後は、天文15年(1546年)の河越夜戦以降にこの地域に進出した後北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。

中世城郭研究会の中田正光によれば、当時の最前線だった松山城を強化する必要から付近の青鳥城や杉山城と共にこの菅谷の旧城も更に築城拡大されたと述べており、全周を覆う堀には多くの折りが使用され、虎口には全て横矢が掛かる仕様、威圧感も兼ねた櫓、馬出しの併用、相互援助が想定された曲輪間の作り、外郭を予想される広大な縄張り等の特徴を指摘し、このような実戦的な城郭は後北条氏の典型的な特徴であり、それ以外は考えられないと指摘している。

なお、過去の発掘調査の結果では後北条氏時代の遺物が出土していないため、杉山城と同様に後北条氏進出以前に廃城になったという説もあるが、発掘調査面積自体が小規模だったため、今後の調査次第では畠山時代や後北条時代の遺物が出土する可能性も考えられる。

立地・構造

館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていた。館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備している。
土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができるが、本郭は単郭式の城館の面影をよくとどめており、鎌倉時代における菅谷館の中心部分と考えられる。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり保存度もきわめて良好である。

史跡指定

1973年(昭和48年)5月26日、「菅谷館跡」(すがややかたあと)として国の史跡に指定された。ただし、当時指定管理方針が確定していなかったため東側の堀跡の一部が未指定に終わった。
1976年(昭和51年)12月、1973年の指定において未指定とされていた東側堀跡の一部を埼玉県が史跡用地として管理することが決まったので、当該部分の追加指定がなされた。

2008年(平成20年)3月28日、既指定の国の史跡・菅谷館跡に加えて松山城跡、杉山城跡、小倉城跡が追加指定され、指定名称が「比企城館跡群」に変更された。

管理人:つぶやき城ー
管理人:つぶやき城ー

MEMO
菅谷館は平地に築城された平城ですが、本郭裏から南側に周ると、高い位置に築城されているのがよく分かります。南側は天然の要害で守られています。整備が行き届いていますが、時期によってはマムシがいるようなので注意が必要です。

管理人:つぶやき城ー
管理人:つぶやき城ー

MEMO
公共交通機関を利用する場合は、雨が降っていなければ武蔵嵐山駅にある観光ステーション嵐なびでレンタサイクルがあるので、続日本100名城の杉山城と菅谷館をセットで攻略できます!

動画で見る菅谷館

マップ

アクセス

公共交通機関
■東武東上線・武蔵嵐山駅西口から徒歩約13分
■東武東上線・武蔵嵐山駅西口から自転車約5分

自動車
■関越自動車道・東松山ICから約10分
■関越自動車道・嵐山小川ICから約10分

菅谷館 周辺スポット

向徳寺

時宗寺院の向徳寺は、大福山無量院と号します。向徳寺は、清阿(宝治2年1248年寂)が開山、その後廃寺となったものの、江戸時代の慶安2年(1649)に幕府より寺領10石の御朱印状を受領、向阿徳音(天和2年1682年寂)が中興したといいます。

→マップ

大蔵神社

木曽義仲の父・源義賢が秩父重隆の娘をめとり、移り住んだ館跡とされます。東西220m、南北170mの範囲が館跡となっています。周囲を堀と土塁で覆われていますが、このような現在の姿は戦国時代のもので、義賢がいた時代のものではないことが発掘調査によってわかっています。

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菅谷館 周辺宿泊施設

菅谷館 周辺グルメ

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埼玉県の城を攻める

埼玉県

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忍城【続日本100名城】: 36.137806, 139.453990
川越城【日本100名城】: 35.918350, 139.488999
鉢形城【日本100名城】: 36.109645, 139.195962
杉山城【続日本100名城】: 36.063103, 139.311919
菅谷館【続日本100名城】: 36.035937, 139.321758
花園城: 36.122539, 139.172122
小倉城(武蔵国): 36.032581, 139.296845
天神山城(武蔵国): 36.105376, 139.120474
滝の城: 35.800623, 139.532032
岩槻城(いわつきじょう): 35.952027, 139.710238
武蔵松山城: 36.037194, 139.421396
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忍城【続日本100名城】
忍城【行田市】
別名「浮き城」とも呼ばれ、豊臣秀吉の関東平定の際には石田三成の水攻めにも耐えたことで知られる。映画「のぼうの城」の舞台でもある。



遺構:土塁、移築門
復元建築:御三階櫓、土塀
縄張り:平城

忍城データベース
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川越城【日本100名城】
川越城【川越市】
江戸時代には川越藩の藩庁が置かれ、江戸の北側の防衛線として重要視された城。1848年に建られた本丸御殿の一部が現存しており、本丸御殿大広間が現存しているのは川越城と高知城のみで大変貴重な遺構が残っている。



遺構:本丸御殿・家老詰所・富士見櫓跡・中ノ門堀跡・土塁
埼玉県有形文化財:本丸御殿
縄張り:平城(県指定史跡)

【川越城データベース】
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鉢形城【日本100名城】
鉢形城(はちがたじょう)【寄居町】
北条氏邦が築いた平山城で北関東における支配の要となった城。北条氏が支配していた頃には武田信玄でも上杉謙信でも落とせなかった堅城で遺構が良好に残っている。



遺構:土塁、堀、土橋、石垣、馬出
復元建築:四脚門・石塁・空堀等
縄張り:平山城(国指定史跡)

鉢形城データベース
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杉山城【続日本100名城】
杉山城【嵐山町】
「戦国期城郭の最高傑作」「築城の教科書」と称される、石垣の城にも負けない美しい土の城。屏風折れの土塁など芸術的な遺構が残っている。



遺構:土塁・堀・土橋・空堀・曲輪
縄張り:山城(国指定史跡)

杉山城データベース
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菅谷館【続日本100名城】
菅谷館【嵐山町】
鎌倉時代に武蔵武士の畠山重忠が居住した所と伝えられている。戦国時代には数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大し、土塁や空堀が良好な状態で残っている。



遺構:曲輪・土塁・空堀・虎口
復元建築:木橋
縄張り:平城(国指定史跡)

菅谷館データベース
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花園城
花園城
関東管領・山内上杉氏の重臣 藤田氏代々の居城で、北条氏邦を養子に迎えて本拠を鉢形城に移ると支城として使われた。ダイナミックな堀切や竪堀、土塁が残る。



遺構:石垣・土塁・郭
縄張り:山城

花園城データベース
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小倉城(武蔵国)
小倉城(おぐらじょう)

大量の石材を利用した石塁が随所に築かれている。郭3の外周部では高さ5m、延長100m以上の規模。

遺構:土塁、石塁、曲輪、堀切、虎口

データベース
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天神山城(武蔵国)
天神山城

北条氏邦が入城し鉢形城に居城を移した後も天神山城は機能し、小田原征伐の際に鉢形落城と共に開城。

遺構:石垣・土塁・郭

データベース
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滝の城
滝の城【所沢市】
北条氏照が居城したとされる城で北条築城術の障子堀も残る城。戦国時代は北条氏照の八王子城の支城として使われた。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で八王子城と共に落城。現在は本丸跡に城山神社が祀られている。



遺構:土塁・空堀(含障子堀)・土橋・郭
縄張り:平山城(県指定史跡)

滝の城データベース
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岩槻城(いわつきじょう)
岩槻城【さいたま市】
江戸時代に岩槻藩の藩庁が置かれた城で、江戸北方面の守りの要衝として重要視され譜代大名の居城となった。現在は岩槻城址公園として整備されている。



遺構:土塁、曲輪、空堀、土橋、馬出
移築建築:城門
縄張り:平城

岩槻城データベース
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武蔵松山城
武蔵松山城【東松山市】
扇谷上杉家が居城としたが滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡る。一度、上杉謙信に攻め落とされるが、2年後の1563年に北条氏康と武田信玄の連合軍によって奪還。小田原征伐で前田利家・上杉景勝らに包囲され落城した。空堀の遺構が綺麗な状態で保存されている。



遺構:空堀・土塁
縄張り:平山城(国指定史跡)

【武蔵松山城データベース