安土城

見どころ

  • 日本初となる石垣の大規模要塞 今でも残る石垣群
  • 大手道に幾つも点在する転用石。
  • 今でも残る天主石垣と礎石
  • 安土城近くにある信長の館(資料館)

御城印と名城スタンプ

日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所

  • 城なび館(安土城内)で攻略

※その他、安土城考古博物館・安土城天主 信長の館・安土城郭資料館

御城印

  • 安土城の入山管理署(摠見寺)で攻略

概要

安土城は、琵琶湖東岸の、近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。

城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。

城郭構造山城
天守構造望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存)
築城主織田信長
築城年1576年(天正4年)
主な改修者羽柴秀吉
主な城主織田氏、明智氏
廃城年1585年(天正13年)
遺構天守台、曲輪、石垣、堀
指定文化財国特別史跡
再建造物一部の石垣・大手道石階段

安土城について

六角氏(近江守護)の居城観音寺城の支城を拡張整備した城。安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。

建造当時は郭が琵琶湖に接していた(大中湖)。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。

総奉行は丹羽長秀。

この城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。

城郭の規模、容姿は、天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった。

ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。

城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。

滋賀県は1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。

南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模した本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。

調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した。20年間で調査が実施されたのは史跡指定面積の約20%(17ヘクタール)にとどまったが滋賀県の財政事情から事業継続には至らず、全域の調査(50年から100年必要とされる)は将来にゆだねられることとなった。    

圧巻の石垣・高層建築物・金の装飾など、戦う城から魅せる城へと時代が変わる瞬間の城。

発見されない蛇石

秀吉は観音寺山と長命寺山の谷から大石を引き出すため人足を集めた。石引きの歌声が天地にこだまする有様は、「昼夜山も谷も動くばかり」だったという。

なかでも「蛇石」という巨石は五間余(約10メートル)、推定三万貫(約112トン)あったが、しかし引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。

その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。                                                                                                                                                                           

本丸御殿と清涼殿の酷似

安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている。主な根拠として、

  • 礎石(=柱)の間隔が非常に長い。通常、武家の建築物の柱の間隔は6尺5寸(約1.97m)だが、この本丸御殿は7尺2寸(約2.2m)もある。公家の建物であれば武家のものより長いが、それでも7尺が標準であり、7尺2寸というのは現在の御所よりも長い。
  • 詳細な調査を行って復元図を作成した結果、建物は3つ存在したことが明らかになった。その配置は「コ」の字型という特殊なもので、清涼殿と共通する。
  • 1613年に江戸幕府が建てた清涼殿の図面を、東西逆にすると、上の復元図とほぼ重なる。規模や部屋割りもほぼ一緒である。
  • 1589~1591年にかけて豊臣秀吉が建てた清涼殿は、この徳川幕府製の清涼殿と基本的に同様の平面構成を持っている。
  • 近世(豊臣・徳川時代)の清涼殿は、一部に武家住宅の様式を取り入れているという点で古代~中世の伝統的な清涼殿から大きく様変わりしており、安土城が建てられたのはこの中世と近世の間、しかも豊臣版の清涼殿が建てられる前である。
  • 信長公記に、安土城の屋敷の中で「御幸の間」「皇居の間」を拝見したと書かれている。
  • 言継卿記には「来年は内裏さま(=天皇)が安土へ行幸する予定」という、著者・山科言継の娘の手紙が記録されている。
  • 菊の紋章がついた瓦が発掘されている。

現在の清涼殿は東向きに建てられているが、この本丸御殿は西向きに建てられている(東西を逆にすると徳川版と重なるのはこのため)。

歴史・沿革

安土桃山時代

  • 1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。
  • 1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。
  • 1582年(天正10年) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により自害した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後に蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土城から移動させ退去。その後、明智軍が安土城を占拠した。山崎の戦いで光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失した。焼失の経緯や理由については諸説あるが不明である。

本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなど、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。

近代

  • 1918年(大正7年) 安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立される。
  • 1926年(大正15年) 1919年(大正8年)に施行された史蹟名勝天然紀念物保存法により、安土城址が史蹟に指定される。
  • 1927年(昭和2年) 内務省(現・総務省)が城跡に「安土城址」の石碑を建てる。
  • 1928年(昭和3年) 滋賀県が史蹟安土城址の管理団体に指定される。その後、大手門跡などに標石を建てたり、二の丸跡の復旧、城内石段の改修や天主・本丸跡の発掘調査を行う。

現代

  • 1950年(昭和25年) 文化財保護法施行に伴い史跡安土城跡となり、2年後の1952年(昭和27年)特別史跡に指定される。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(51番)に選定された。
  • 2009年(平成21年) 調査整備20年計画が終了。
  • 2024年(令和6年)12月21日 『令和の大調査』の結果、天主台の東側にあった本丸取付台の建物の規模が判明したと発表。

発掘調査・整備

調査整備20年計画が1989年から2009年まで行われた。

  • 1989年(平成元年) 伝羽柴秀吉邸跡で五棟の建物跡を検出する。
  • 1990年(平成2年) 環境整備の基本構想を策定する。伝羽柴邸跡で櫓門跡を検出する。136メートルにわたり大手道の当初ルートを確認する。
  • 1991年(平成3年) 伝前田利家邸跡で建物四棟と木樋暗渠を検出する。黒金門に至る大手道の全ルートを解明する。
  • 1992年(平成4年) 環境整備工事に着手する。
  • 1993年(平成5年) 大手門とその東西に続く石塁跡を発見する。東家文書を調査し旧安土城下の絵図を多数発見する。
  • 1994年(平成6年) 旧摠見寺境内地を調査し当初の伽羅配置を明らかにする。摠見寺の高石垣を解体し当初の大手道を検出する。
  • 1995年(平成7年) 百々橋口道及び主郭部周辺をめぐる周回路を調査する。
  • 1996年(平成8年) 搦手道の調査に着手する。米蔵付近より金箔貼りの鯱瓦を発見する。
  • 1997年(平成9年) 搦手道の全ルートを解明する。台所跡から流し・釜戸ともに飾り金具を発見する。
  • 1998年(平成10年) 天主台下から焼失建物とともに多数の遺物を発見する。一建築金物、十能・鍬、花器、金箔瓦、壁土等や搦手口の湖辺で木簡、完形に近い金箔瓦等を発見する。大手道の整備工事が完成する。
  • 1999年(平成11年) 本丸跡から清涼殿と同じ平面を持つ建物跡を発見する。

天主

天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいる。基本的には同時代人の記述にかかる「信長公記」や「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致しているが、解釈をめぐっては意見が分かれており未だ決着を見ない。

その姿は5重6階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる。

信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。

現地情報

  • JR西日本琵琶湖線(東海道本線)安土駅下車 徒歩20分

写真で見る安土城