安土城(あづちじょう)は、1576年から織田信長が約3年の歳月をかけて琵琶湖畔の安土山に築いた、近世城郭の先駆的な城です。日本初の「天主」を持ち、豪華絢爛な5層7重の構造で、天下統一の拠点として機能しました。
戦うための軍事施設だった城は、権威の象徴という新たな役割が生まれた城でもあります。
本能寺の変後の1582年に天主を含めた建築物は焼失し、約3年後に廃城となった。
現在は国指定の特別史跡として、広大な石垣や大手道が残されています。
お城ニュース ※外部リンク
2026年6月9日
天主台北側通路を探せ 県調査始まる
安土城の見どころ

伝羽柴秀吉邸

清涼殿 礎石

二の丸石垣

黒金門跡

転用石

天主 入口

天主 礎石

大手道

伝前田利家邸

摠見寺
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
日本100名城スタンプ設置場所
・安土城跡受付
・安土城天主信長の館
時間:月曜(祝日除く)・祝日の翌日
・安土城郭資料館
時間:月曜(祝日除く)・祝日の翌日
御城印販売
・安土城 入山受付で摠見寺の安土城の朱印を購入可能
・安土城郭資料館で販売


安土城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 織田信長が築城し、安土城から近世城郭の骨格が変貌を遂げた革命の城だったので、歴史ポイントは最高クラス
- 遺構は石垣や建物の礎石のみとなるが、範囲は広く良好な石垣を見ることができる
平均:82/100 ポイント
合計:490/600 ポイント
おススメ度:★★★★★★
■見どころバロメーター
■滋賀県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー
安土城 周辺の天気
| 城郭構造 | 山城 |
|---|---|
| 天守構造 | 望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存) |
| 築城主 | 織田信長 |
| 築城年 | 1576年(天正4年) |
| 主な改修者 | 羽柴秀吉 |
| 主な城主 | 織田氏、明智氏 |
| 廃城年 | 1585年(天正13年) |
| 遺構 | 天守台、曲輪、石垣、堀 |
| 指定文化財 | 国特別史跡 |
| 再建造物 | 一部の石垣・大手道石階段 |
写真で見る安土城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR琵琶湖線「安土駅」徒歩25分
■車・バイク
・名神高速道路・八日市ICから30分
・名神高速道路・竜王ICから30分
■駐車場
・入山者専用無料駐車場(無料)
20台 24時間駐車可能
・多目的広場
160台 9:00〜17:00
安土城について
六角氏(近江守護)の居城観音寺城の支城を拡張整備した城。安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。
建造当時は郭が琵琶湖に接していた(大中湖)。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。
総奉行は丹羽長秀。
この城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。
城郭の規模、容姿は、天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。
日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった。
ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。
城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。
滋賀県は1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。
南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模した本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。
調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した。20年間で調査が実施されたのは史跡指定面積の約20%(17ヘクタール)にとどまったが滋賀県の財政事情から事業継続には至らず、全域の調査(50年から100年必要とされる)は将来にゆだねられることとなった。

MEMO
圧巻の石垣・高層建築物・金の装飾など、戦う城から魅せる城へと時代が変わる瞬間の城。
発見されない蛇石
秀吉は観音寺山と長命寺山の谷から大石を引き出すため人足を集めた。石引きの歌声が天地にこだまする有様は、「昼夜山も谷も動くばかり」だったという。
なかでも「蛇石」という巨石は五間余(約10メートル)、推定三万貫(約112トン)あったが、しかし引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。
その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。
天主
天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいる。基本的には同時代人の記述にかかる「信長公記」や「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致しているが、解釈をめぐっては意見が分かれており未だ決着を見ない。
その姿は5重6階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる。
信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。

MEMO
滋賀県では天正遣欧使節によってローマ教皇に献上された「安土山図屏風」をはじめとする安土城関連資料の情報を得るためバチカンを訪問。調査への更なる協力依頼が続いています。この屏風が発見された時、ついに安土城の姿がベールを脱ぎます。
安土城 周辺スポット
信長の館
スペインセビリア万国博覧会終了後、移築した安土城天主最上部の2層が展示保管され一般に公開しています。
セビリア万国博覧会では再現されかった’金箔瓦を葺いた庇屋根’や’天人の絵が描かれた5階の天井、また、金の鯱をのせた大屋根を復元し展示しています。
信長の館で豪華絢爛な天守最頂部を見てから安土城に行けば、イメージが倍増します。
安土城郭資料館
JR安土駅南広場にある城郭を思わせるような建物が城郭資料館です。織田信長が築城した安土城のひな形が、実物の20分の1の大きさで再現されています。天主閣が細部まで忠実に再現されており、安土城の姿を偲ぶことができます。
グッズやお土産も安土央城郭資料館で購入することができます。
浄厳院
安土・桃山時代、織田信長が安土城築城とともに創建し、近江・伊賀国両国の浄土宗総本山としたのが始まりです。
本堂には、その重厚な雰囲気にふさわしい本尊木造阿弥陀如来像が安置されています。
旧宮地家住宅
近江八幡市の近江風土記の丘にある古民家で、江戸時代後期に建てられた物で重要文化財にも指定されています。
昭和44年 重要文化財に指定されたのを機に滋賀県に譲渡され、近江八幡市(旧安土町)の「近江風土記の丘」に移築保存されています。安土城考古博物館の裏なので、併せて観光することができます。
セミナリヨ跡
織田信長の庇護を受けた宣教師オルガンチノが建てた、日本初のキリスト教学校です。本能寺の変後、安土城とともに焼失しました。堆定地が公園として整備されています。
安土城 周辺宿泊施設

安土城 攻城の拠点
滋賀県の城を攻める



























