【京都府】勝龍寺城(再訪)

CASTLE DATA FILE.24
登城日:2025年10月24日
交通手段:JR京都線「長岡京駅」下車→徒歩約10分
ステータス:ー
ジャンル:平城
遺構:土塁・空堀
復元建築:模擬櫓
スタンプ:ー
御城印:「神足ふれあい町家」で購入

前回の訪城2023年12月の記録もチェック↓

明智光秀の息吹が残る地で想いを馳せる

今年の8月以来、再び京都にやって来ました。
今回は、京都・大阪・和歌山を巡る2泊3日の遠征となります。

まずは、約2年ぶりの訪城となる勝龍寺城へ向かいました。最寄り駅はJR京都線 長岡京駅。歩いて10分ほどで城跡に到着できます。

駅からも近く、アクセスが良いところもポイントです。

勝龍寺城といえば細川氏の居城で、明智光秀の娘 たま(細川ガラシャ)が細川忠興の元に輿入れしたので、縁のある城として有名です。
毎年11月には細川ガラシャまつりも開催されています。
さらに、本能寺の変後に明智光秀と豊臣秀吉は、天王山の麓あたりで戦います。

敗走した明智光秀が最後の夜を迎えましたのも、勝龍寺城でした。

駅前のガラシャ通りを進むと神足神社があり、神社の手前には勝龍寺城の土塁跡があるので、必見です!
何気ない壁に見えますが、これこそ土塁の断面形状そのもの。

土塁の上に登ると、堀が一望!
中央には土橋があり、その先は虎口なので城の入口となります。

土橋と虎口。
当時はもっと堀は深かったのかもしれません。

虎口からのショット。
奥の土塁はL字型になっており、虎口を二方向から攻撃できるように横矢掛かりになっています。

勝龍寺城の縄張り。
川に囲まれた地帯に当時は幾つもの水堀と土塁を巡らせた城でした。

本丸の堀と土塁。

勝龍寺城の建築物は当時のものではなく、土塀も含めて近世に造られたものになります。

今回は勝龍寺城の裏手より入城します。

北門の石垣。
勝龍寺の石垣も多くが失われており、北門の石垣に関しては半分くらいが当時のものなので貴重です。

勝龍寺城には多くの転用石が使われており、北門の石垣にも五輪塔の転用石が残っています。

転用石は城内に祀られています。
多くの五輪塔や地蔵などの石垣が使われていたことが分かります。

北門は明智光秀が敗走して勝龍寺城に引き返し、羽柴勢に包囲されたことで、この北門から脱出したと伝わります。
脱出後に坂本城に引き返す途中に、落武者狩りにあって最後を迎えます。

土塁の上から見た北門跡。
当時は枡形の門となっていました。1572年に細川藤孝が城主となり、織田信長の命によって改修が進められました。

天主跡。
本丸には一際高い土塁があり、その上には天主がありました。
安土城よりも前に天主が存在していたとされています。

先ほどの枡形の北門も含めて、あまり脚光を浴びない勝龍寺城は、当時先進的な城であった可能性があります。

現在表とされる本丸の門は高麗門で造られていますが、当時はこのような門であったかは不明です。

模擬の建築物が多く建ち並んでいますが、雰囲気は最高に伝わります。
のぼりは明智光秀の桔梗紋と、細川家の九曜紋。

本丸の北西に面して展開されていた曲輪は沼田丸。
当時は本丸と同様に堀と土塁で囲まれた曲輪でした。現在は広場と公園になっています。

勝龍寺城と併せて今回行きたかった場所が、恵解山古墳!
ここは前回行くことができなかったので、今回の予定に組み込んでいました。

勝龍寺城からは歩いて10分〜15分ほど。古墳時代中期の前方後円墳ですが、砦や城のように堀で囲まれています。

山崎の戦いで天王山に本陣を置いた羽柴秀吉に対して、明智光秀はこの恵解山古墳に本陣を置いたとされています。
背後には勝龍寺城。さらには京都の市内を背後に置いて戦ったことになります。

今では住宅に囲まれ、保育園児の姿を見て、のどかで静かな時間が流れていますが、400年以上前にはこの地で天下を賭けた戦いが行われていたことは事実。

そんな想像をしながら、街を歩くのも城巡りの醍醐味。前回は勝龍寺城の次に羽柴秀吉が本陣を置き、後に居城とした山崎城に行きました。

割と近い場所にあるので、セットで周る事ができます。
今回は、こちらも勝龍寺城から近い淀城へと向かいます!