勝龍寺城

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、京都府長岡京市勝竜寺にあった南北朝時代から江戸時代初期にかけての日本の城。城名は付近にある勝龍寺に由来する。

勝龍寺城は暦応2年(1339)、足利尊氏の命により細川頼春によって築城されました。 天正6年(1578)、明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川忠興に嫁ぎ、2年間、この城で幸福な新婚時代を過ごしました。

本能寺の変の後、山崎の合戦では光秀がこの城に本陣を構えました。 勝竜寺城公園は平成4年(1992)、勝龍寺城跡に造られた都市公園で、「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。

本能寺の変後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、勝龍寺城にて最後の夜を過ごしたと伝わる。

お城ニュース ※外部リンク

勝龍寺城の見どころ

歴史ポイント

勝龍寺城は明智光秀の実娘の玉(細川ガラシャ)が輿入れした城として有名で、勝龍寺城がある長岡京市も細川ガラシャを推しています。秋には細川ガラシャ祭りが開催されています。
歴史好きとしては、明智光秀が最後の夜を過ごした城として有名です。山崎合戦で敗れた明智光秀は勝龍寺城に退却。夜中に勝龍寺城を脱出して坂本に向かう途中に命を落としました。

遺構ポイント

勝龍寺城は現在、勝竜寺城公園として整備されていますが、神足神社にも遺構が残っています。横矢掛かりの土塁と空堀、土橋が綺麗に整備されています。土塁にも上ることができます。

勝竜寺城公園には、天守があったとされる場所に高い土塁が残り、明智光秀が脱出した北門に当時の石垣の一部が残っています。
水堀や土塁で区画された城跡は、当時の姿を雰囲気を味わうことができます。

土塁

空堀

隅櫓

石垣

北門跡

天主跡

勝龍寺城カルテ

■攻略のレーダーチャート(ポイント)

■ポイント

  • 城跡は公園として整備されており、空堀や土橋が復元されている。細川ガラシャ・明智光秀を推しており、街の雰囲気も良い
  • 明智光秀が最後の夜を過ごした城ということで、歴史ポイントは高い
  • 京都市内からも近く、長岡京駅からも歩いて行けるのでアクセスは抜群

平均:67/100 ポイント
合計:400/600 ポイント
おススメ度:★★★★☆☆

■見どころバロメーター

■京都府 主要城郭との比較(ポイント)

※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー

勝龍寺城の御城印

※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。

御城印販売

・長岡京市観光案内所
 午前9時から午後5時 ※水曜定休
・観光情報センター
 午前9時から午後5時 ※水曜定休
・長岡京@navi.
 午前9時から午後4時 ※水曜定休
・神足ふれあい町家
 午前9時~午後6時

勝龍寺城周辺の天気

別名小竜寺城
城郭構造梯郭式平城
天守構造御主(1571年頃築)
築城主細川頼春か
築城年室町時代か延元4年/暦応2年(1339年)
主な改修者細川藤孝
主な城主細川氏、永井氏他
廃城年慶安2年(1649年)
遺構土塁、空堀、石垣、土橋
指定文化財未指定
再建造物模擬石垣・櫓

写真で見る勝龍寺城

勝龍寺城 水堀と土塁
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勝龍寺城 水堀と土塁
勝龍寺城 高麗門と本丸入口
勝龍寺城 空堀・土塁
勝龍寺城 北門跡
勝龍寺城 北門石垣
勝龍寺城 転用石
勝龍寺城 北門桝形
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マップ

アクセス

■公共交通機関
・JR京都線「長岡京駅」徒歩約10分

■車・バイク
・名神高速道路「大山崎IC」から5分

■駐車場
・勝龍寺城公園駐車場(無料、10台)

勝龍寺城の歴史

延元4年/暦応2年(1339年)、京都をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城と言われてきたが、「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春次男細川頼有の末裔)」としている。

この城の初見は『東寺百合文章ひ』の康正3年(1457年)1月19日に「来る二月八幡御番人夫五人、晦日勝竜寺へ早々越さるべく候」とあるので山城守護畠山義就が郡代役所として築城したと推定されている。

更に応仁の乱の応仁2年(1470年)に、「四月十四日、勝竜寺搦手北の口に於て合戦仕り、安富又次郎相共に馬場犴びに古市を焼落とす」(『野田泰忠軍忠状』)と記しているので、この頃には軍事施設して使用されていた。

「郡代の政庁から城郭に発展した典型的な例」としている。その後有力な史料には勝龍寺城が現れてこないが、永禄9年(1566年)7月17日に、「小竜寺城、淀城扱いに依て取り退くと云々。小竜寺は岩成、淀は日向の内衆金子これを請け取ると云々」(『永禄九年記』)とあるので、戦国時代末期には淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となっていた。

勝龍寺城の戦い

観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568年)9月26日、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝龍寺城を攻撃させた。

岩成友通は足軽衆を中心に応戦したが、織田軍は馬廻り衆を乗り入れ戦いを有利に進めて首級を50余りあげ、上洛を果たしていた信長の陣所である東福寺へ届けたとされる。

自ら首改めを済ませた信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、信長自身が5万兵を率いて勝龍寺城の攻略に向かった。畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆であったが、織田方の軍を前に降伏・開城する。

これは観音寺城の戦いで近江守護であった六角義賢・義治父子が織田軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに観音寺城が落城したことが影響していたと考えられている。

その後信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させていき、三人衆を阿波に追放し畿内から掃討することになる。

織田氏拠点

義昭が征夷大将軍に任じられた後、藤孝は9月29日に岩成友通から奪還した山城国勝竜寺城を与えられ天正9年(1581年)3月24日まで統治した、その翌日には猪子兵助が点検のために入城している。

藤孝は二重の堀を持つ堅固な城にしようと改修を始めた。同年10月14日の信長より藤孝宛ての「印判状」には「勝龍寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し」とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている。

改修は元亀2年(1571年)には終わっていたようであり、この頃の勝龍寺城は槇島城と共に信長の山城の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われる。

また勝龍寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても知られる。天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝龍寺城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。

丹後へ移封されるまでの間に、2人の子宝に恵まれた。

細川藤孝は天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって京都を統括した村井貞勝の与力として矢部家定、猪子高就の両名が城主となり、二人は細川の旧領の検地を行っている。

天正10年(1582年)、本能寺の変の際に明智光秀方が占拠し拠点とした。本能寺の変の際、猪子は二条城にて、明智方の攻撃により戦死している。変から数日後の山崎の戦いで敗走した光秀は、勝龍寺城に帰城するも、敵である羽柴秀吉軍の追撃を受け城を放棄、勝龍寺城の北門から脱出し、本来の拠点である近江国坂本城へ逃走する途中で死去。

翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。なお矢部は羽柴方として参戦している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、明智家縁戚のガラシャを幽閉した。

羽柴氏以降

その後の勝龍寺城は羽柴方にあまり重要視されず、石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。

江戸時代に入った寛永10年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられた。永井は荒廃していた勝龍寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝龍寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。

この際に不完全ながらも近世城郭としての勝龍寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、慶安2年(1649年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。

城郭

勝龍寺城の主郭部分は東西120m、南北80mの長方形をしており、東、北側の幅12mの水堀を残している。また東、西、北の三面には土塁が残っている。西側の土塁は高さ10m、幅5mと大規模なものである。
南側の土塁、堀は消滅してしまったが1922年(大正11年)の地図には記載されており、主郭部分を堀と土塁が巡っていた。またこの主郭の西側には「沼田丸」という曲輪があった。

これは細川藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったのではないかと伝えられている。また大正11年の地図には沼田丸周囲にも堀が描かれていた。現在は勝竜寺城公園の駐車場がある。

主郭部分より北東に200mの地点に神足神社があり、そこから南側に東西に土塁と空堀がある。この空堀の中央部分には土橋が架かっており、この土橋に対して西側土塁が張り出した部分が、横矢がかかる構造となっている。

元亀4年(1573年)6月6日付の里村紹巴書状(橋本家文書)に、勝龍寺城の「天主」において細川藤孝・里村紹巴が両吟連歌興行を行ったことが記されており、文献から安土城築城に先行する数少ない天主が存在したことが明らかになった。

現在石垣は北門の一部に残るのみだが1979年(昭和54年)の発掘調査で石仏二体と石材数個、また大量の栗石が検出され、この発掘調査以外からも勝龍寺城の大半が石垣によって築かれたことが推定されている。

また虎口部分が枡形虎口となっていることも明らかにあり、織豊系城郭であることが明確になっている。

勝龍寺城 周辺スポット

恵解山古墳(いげのやまこふん)

明智光秀と羽柴秀吉が天下をかけて戦った、山崎の戦いの際に明智光秀が本陣を置いたとされる。

全長約128m、後円部の直径約78.6m、高さ10.4m、周囲に幅約30mの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及ぶ。

神足ふれあい町家

江戸時代には「紙屋清兵衛」という屋号で和紙などを商っていた。

明治以降、町医者などに利用されていたものを、後年になって石田家が購入。平成12年10月に国登録有形文化財に登録。現在は「神足ふれあい町家」として整備しました。

勝龍寺城 周辺宿泊施設

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