高松城【日本100名城】
高松城は豊臣秀吉の四国征伐の後、生駒親正によって築かれた城です。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。近世城郭の海城としては最初にして最大の城で、その規模は「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われているほどで、日本三大水城の筆頭です。また、高松城の天守は小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」でしたが、1884年(明治17年)に老朽化により解体されたため現存していません。現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されています。
Contents
高松城 周辺の天気
| 別名 | 玉藻城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 輪郭式平城 |
| 天守構造 | 独立式層塔型3重4階地下1階(1669年改・非現存) |
| 築城主 | 生駒親正 |
| 築城年 | 1590年(天正18年) |
| 主な改修者 | 松平頼重、松平頼常 |
| 主な城主 | 生駒氏、松平氏 |
| 廃城年 | 1869年(明治2年) |
| 遺構 | 櫓、門、渡櫓、石垣、堀 |
| 指定文化財 | 国の重要文化財(北の丸月見櫓・水手御門・渡櫓、旧東の丸艮櫓、披雲閣)、国の史跡、国の名勝(披雲閣庭園) |
| 再建造物 | 披雲閣、桜御門 |
写真で見る高松城
レポート
概要
別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。
近世城郭の海城としては最初で最大の例で、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞『ザ・グラフィック』でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。
現在は、三重櫓2基や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。
構造
城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。
縄張りは黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。
しかし、版籍奉還以後廃城になった高松城は明治以降の都市化の波に呑まれ、現在では海側に新しい道路(水城通り)が通り、ほとんどの建物が取り壊され、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられている。最盛期には66万m2(約20万坪)あった城の総面積も、現在では約1/8の7万9587m2(約2万4千坪)にまで減少した。しかし現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、往時の名残を残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し、養殖の鯛も放流されている。
天守
天守は独立式層塔型3重4階、地下1階、初層平面が東西13間2尺(約26.2メートル)×南北12間2尺(約24.2メートル)、高さ13間半(約24.5メートル)にもおよんだといい、現存している4重6階の高知城天守(高さ約18.6メートル)や3重3階の松山城(高さ約20メートル)の天守を凌ぎ四国最大の規模であった。
また、4階平面が3階平面より大きい唐造で、1重めも天守台から外には張り出させて石落としを開いていた。ほかに、1重目と2重目の比翼入母屋破風と唐破風、4階の火灯窓などの特徴があった。創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが、1671年(寛文11年)の松平氏による大改修の際に、白漆喰総塗籠の天守に改築された。
小田野筆帖によると天守地下1階は東西6間・南北5間・畳60帖、1階(四の間)は東西12間半・南北11間半・畳187帖、2階(三の間)は東西9間・南北8間・畳140帖、3階(二の間)は東西5間・南北6間・畳60帖、4階(諸神の間)は東西7間・南北6間・畳80帖で有り、4階(諸神の間)には三千体の諸神を祀り金の厨子や四神の旗を飾った特殊な空間で有った。
天守の資料は平面図、立面図が無く外観の古写真、内部の資料は小田野筆帖しか残っていない。又、天守を木造復元する計画もあるが平面図が残っていない事により木造復元は不可能である事から国の許可が下りない為、膠着状態で有る。なので懸賞金3,000万円を懸けて江戸時代の立面図、平面図の資料を探している。
天守は老朽化により1884年(明治17年)に解体され、1920年に松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立された。2006年より始まった天守台石垣の解体修復工事に伴い、玉藻廟はすべて解体された。

「高松城跡ガイダンス施設 陳列館」には天守の模型や出土品が展示されています。

1979年撮影の天守台。以前は松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立された。
国に重要文化財

月見櫓・水手御門・渡櫓
北之丸の最北端に位置する現存重要文化財(江戸初期の1676年頃上棟)で、藩主の帰城を出迎える「着見櫓」の役割や海からの侵入を防ぐ役割を持ち、水手御門(薬医門)は海に直接面した国内唯一の遺構として、月見櫓・渡櫓と一体の美しい景観を形成しています。

艮櫓(うしとらやぐら)
艮櫓(うしとらやぐら)は、1677年(延宝5年)に東ノ丸の北東の隅櫓(すみやぐら)として建てられたもので、現在残されている月見櫓と同時期に建てられたものです。北東の方角のことを丑寅(艮)ということから名づけられました。
1967年(昭和42年)に現在の旧太鼓櫓(たいこやぐら)跡に移築復元されました。

披雲閣
披雲閣は、2012年(平成24年)「披雲閣(旧松平家高松別邸)3棟」の名称で国の重要文化財に、2013年(平成25年)庭園は「披雲閣庭園」の名称で国の名勝に指定された。松平家の高松別邸として1917年(大正6年)に竣工した和風住宅建築である。
大正期の大規模かつ本格的な木造住宅建築として貴重である。
MEMO
2005年にイギリスのケンブリッジ大学で高松城天守の古写真が発見された。発掘調査では礎石も発見されているので、天守の復元計画は現在も進行中です。
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR予讃線/JR高徳線・高松駅から徒歩約3分
※東門へは徒歩約10分
■自動車
・高松自動車道・高松中央ICから約20分
・高松自動車道・高松西ICから約30分
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特別名勝 栗林公園(りつりんこうえん)

国の特別名勝に指定されている文化財庭園の中で最大の広さをもつ回遊式大名庭園。高松藩の歴代藩主が長い年月をかけて築いた庭園には、池と築山が巧みに配置されており、その庭園美は「一歩一景」と称されています。
鬼ヶ島大洞窟

桃太郎伝説で有名な洞窟です。大正3年、香川県鬼無町の郷土史家、橋本仙太郎氏が発見し、10数年後の昭和6年に鬼ヶ島として公開された。洞窟が造られたのは、紀元前100年頃と言われている。
高松市歴史資料館

高松市の歴史を学び,郷土に親しめる施設。
常設展示は,高松における歴史の中でも特徴的なものをとりあげ,原始・古代から近・現代までを時代順に紹介している。
その他,年5回の企画展示等や講演会,館内講座,館外講座を随時開催している。
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