小田原城【日本100名城】
小田原城は、神奈川県小田原市にある日本100名城の一つです。戦国時代には北条氏の本拠地として、総構(そうがまえ)と呼ばれる巨大な外郭を築き、上杉謙信や武田信玄の攻撃も退けた「難攻不落」の城として知られます。江戸時代には関東防御の要衝となりました。
現在の天守閣は1960年に再建されたもので、内部は歴史資料館になっています。城跡は小田原城址公園として整備され、桜の名所としても人気です。
Contents
小田原城の見どころ

北条氏は戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名で、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていき、関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。
四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年 約18万の大軍に包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は滅亡しました。
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ
・小田原城天守閣1F
■御城印
・小田原城天守閣1F


小田原城 周辺天気
| 別名 | 小峯城(小峰城)、小早川城(小早川館) |
|---|---|
| 城郭構造 | 平山城 |
| 天守構造 | 複合式層塔型3重4階(1633年 築) (1706年 再) (1960年 RC造復興) |
| 築城主 | 大森頼春 |
| 築城年 | 応永24年(1417年) |
| 主な改修者 | 杉村氏、北条氏綱、氏政、氏直、大久保忠世、稲葉正勝 |
| 主な城主 | 後北条氏、阿部氏、稲葉氏 大久保氏 |
| 廃城年 | 1871年(明治4年) |
| 遺構 | 石垣、土塁、水堀、空堀、大堀切、土塁、郭、障子堀跡 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 再建造物 | 天守、門 |
写真で見る小田原城
登城レポート
小田原城について
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰の城としていた。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。
そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。
ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。又、老朽化した天守の木造復元計画もある。
歴史・沿革
元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(土肥小早川氏の祖とされる)の居館であったとされる。
「鉢木物語」にて、北条時頼から佐野源左衛門に与えられたという物語がある。
応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げた。
明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。
ただし、年代については明応4年(1495年)、以後に大森氏が依然として城主であったことを示すとされる古文書も存在しており、実際に盛時が小田原城を奪ったのはもう少し後と考えられている。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられている。
以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。
永禄4年(1561年)、北関東において後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いとなる。軍記などでは、11万3千(関八州古戦録より)ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと伝えているが、実際は10日間ほどの包囲であったとみられる。
永禄11年(1568年)甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄し越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗した。
信玄はこれに対して北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、翌永禄12年10月1日から4日(1569年11月9日から12日)にかけて後北条領国へ侵攻し、小田原城を包囲する軍事的示威活動を行い、撤退に際して追尾した後北条勢を三増峠の戦いにおいて撃退した。
後に後北条氏は武田の駿河領有を承認し甲相同盟を回復している経緯からも、この時の小田原攻めは本格的侵攻ではなく軍事的示威行為に過ぎないものであったと考えられている。
後北条氏による小田原城の改築は大きいものでは少なくても2度あったと考えられている。最初は伊勢盛時(北条早雲)が小田原城を得た直後で、ほぼ同時期に鎌倉に大被害をもたらした大地震があったと言われており(明応地震を参照のこと)、文献上の記録はないものの距離的に近い小田原も被害を受けた可能性があり、戦闘と地震による打撃を回復させるための改築が行われたと見られている。
もう1度は永禄9年(1566年)から同12年の時期に小田原城の改築に関する文書が多数発給されており、この時期に相次いだ上杉氏・武田氏の侵攻に備えたものと考えられている。
また、甲相駿三国同盟の時期を除けば、小田原城の西隣に位置する駿河国駿東郡は後北条氏を含めた諸勢力による争奪が長く続いており、後北条氏の時代全体を通じて一番緊迫した国境であった駿東方面への押さえとして小田原城は重要視されており、関東地方の大半を制圧した後もその中央部に本拠地に移動させずに小田原城を本拠とした理由と考えられている。
なお、北条氏康の居館には会所・寝殿が備わっており、永禄元年(1558年)に小田原に入った古河公方足利義氏が氏康邸を宿舎としていたことが知られている。
中世城郭の遺構
■小峯御鐘ノ台大堀切 東堀
■小峰御鐘ノ台大堀切東堀 北端
■八幡山古郭跡
■三の丸外郭新堀土塁
■稲荷森の堀
■早川口遺構
■山ノ神堀切
■蓮上院付近の土塁
史跡指定
1938年(昭和13年)8月8日、「小田原城跡」として国の史跡に指定された。1959年(昭和34年)5月29日一部地域を追加指定したが、1974年(昭和49年)と1975年(昭和50年)の両年度にわたって小田原市保存管理計画策定事業を行った結果、主として外郭部の未指定地において良好な遺構の遺存が確認。
そのうち、後北条氏時代のものと思われる北東側の空堀と、江戸時代の絵図などで知られる「早川口」関連遺構と考えられる二重の土塁について1977年(昭和52年)5月4日、さらに当該部分の追加指定がなされた。
その後もたびたび追加指定が行われている。
史跡指定範囲は、小田原市城内・本町・栄町・浜町・城山・板橋・十字・谷津・南町におよんでいる。
マップ
神奈川県小田原市城内6-1
アクセス
■公共交通機関
・JR東海道線/東海道新幹線「小田原駅」徒歩約10分
・小田急小田原線「小田原駅」徒歩約10分
■車・バイク
・小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分
・西湘バイパス「小田原IC」から約5分
・東名高速道路「大井松田IC」から約40分
小田原城 周辺スポット
漁港の駅 TOTOCO小田原

鮮魚、活魚及び水産加工品などの地場の水産物の販売や飲食が勢揃い!
地場産の農産物、土産物等の提供を行い、小田原の観光や地場産品のPRなど情報発信機能を備えた施設です。
魚籃大観音(東善院)

漁港やJR東海道線から大きな観音像が見えます。像の高さは約10mあります。
東善院にあり海上安全・大漁満足・魚介類への報恩感謝などを祈念したものです。
漁港から歩いて10分程度です。
→マップ
小田原城 周辺宿泊施設

小田原城 周辺グルメ
神奈川県の城を攻める
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