石垣山城【続日本100名城】

天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大軍で包囲。その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
関東で最初に造られた総石垣の城で、安土城の石垣も手掛けた最高技術を持つ石工集団 穴太衆(あのうしゅう)による野面積みです。400年以上の時を経ても当時の面影を色濃く残しています。
石垣山一夜城または太閤一夜城とも呼ばれている。
石垣山城の見どころ

天下統一に大手をかけた豊臣秀吉は、小田原を本拠とする北条氏を征伐するために進軍。
小田原全体を見下ろせる笠懸山に一つの城を築かせて、本陣としました。これがいわゆる石垣城です。
全国から大名が動員され20万以上の兵で小田原城を包囲。戦いは天正18年4月から始まり、3か月後に北条氏は小田原城を開城して降伏しました。戦国大名後北条氏の滅亡ということになります。

石垣山城は北条氏を倒すための城であると同時に、全国の大名に権威を見せる城でもあったので、陣城としては規格外のものでした。
現在でも石垣が残っており、特に井戸曲輪と南曲輪の石垣は良好に残っています。
400年ちかく経過した今でも残る石垣は、後に全国の名城の石垣を手掛けることになる穴太衆によって積まれました。
秀吉の権力の大きさと、穴太衆の技術の高さを感じることができます。

井戸曲輪 石垣

南曲輪 石垣

本丸 石垣

南曲輪 石垣

二の丸跡

二の丸 石垣

天守台跡

西曲輪 石垣
登城レポート

ポイント
- 北条軍と豊臣軍による小田原合戦の際に、豊臣秀吉が築いた陣城ということで、歴史の分岐点の城なので歴史ポイントは最高点
- JR東海道線早川駅から徒歩で50分ほど要するのでアクセスポイントは低い
平均:3.5
合計:21.0
- 遺構:遺構の多さ、貴重度
- アクセス(目安):新幹線が最寄り→5、駅が近い→4、駅から歩いて行ける距離→3、駅から遠いがバスが走っている→2、車が無いと行けない→1
- 満足度→攻城のトータル総評
- 歴史→時代に影響を与えた歴史の舞台→5、有名な武将や合戦があった城→4
- 整備:トイレの有無、城内の解説板、パンフレットのクオリティの評価
- 城郭範囲:観覧範囲の広さと、遺構の残存度。見どころの多さにも直結
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■続日本100名城スタンプ
・一夜城駐車場のトイレ前に設置
■御城印販売
・一夜城Yoroizuka Farm マルシェ
営業時間 10:00~17:00 火曜定休


石垣山城 周辺の天気
| 別名 | 石垣山一夜城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 梯郭式山城 |
| 天守構造 | 望楼型3重4階 |
| 築城主 | 豊臣秀吉 |
| 築城年 | 天正18年(1590年) |
| 主な改修者 | なし |
| 主な城主 | 豊臣氏 |
| 廃城年 | 天正18年(1590年) |
| 遺構 | 石垣、曲輪、堀切、井戸 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
写真で見る石垣山城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR東海道本線「早川駅」徒歩約50分
・箱根登山鉄道「入生田駅」徒歩約60分
■車・バイク
最寄りIC
・小田原厚木道路・小田原西IC
・西湘バイパス・小田原IC
■駐車場
・無料駐車場(58台)あり
石垣山城について
豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に構築した。石垣山城は標高261.9mの天守台を頂点に、東西270m、南北550mにわたって丘陵上(石垣山)に位置していた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉は小田原北条氏を屈服させるため、北条領に侵攻を開始。支城であった山中城や八王子城を攻略した後、北条氏の本拠であった小田原城を攻略するために大軍で城を包囲した。元々小田原北条氏の支城があったこの山を占拠した秀吉は、小田原城を見下ろすように城を築くことを発案し、同年4月から築城を開始した。
構築中は小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜にして築城されたかのように見せて驚かせたとする逸話も残り、一夜城の名もこれに由来する。ただし、小田原城と石垣山一夜城の距離は非常に近く、築城中の様子は小田原城から見えていた、もしくは意識的に見せていた可能性が高い。
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であったとされる。約3 – 4万人を動員し、4月から6月下旬までの80日で構築された。
6月初頭に小田原の秀吉の陣へ陸奥国の大名の伊達政宗が出頭した際は未だ完成途上であったが、同地にいた豊臣政権中枢に近かった茶人で商人の千利休が、茶人大名の古田織部に宛てた同月20日付けの書状には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されており、6月26日に完成したとされている(6月26日に本営を早雲寺から移した)。およそ10日後の7月5日、北条氏直は小田原城を出て降伏を申し出ている。
秀吉はこの城で茶会を開き、後陽成天皇の勅使を迎えた。天守台跡が存在し、発掘調査の結果、高層の天守があったと推測されている。時代背景を考慮すると現存する犬山城や丸岡城に近い形式であったと推測されている。
大正12年(1923年)の関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。この城の縄張りを行った者について、城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などがこの後に秀吉の命で築かれた肥前国の名護屋城に非常に似ていることから、同じ担当者すなわち黒田官兵衛であったと推測している。
秀吉が政宗と謁見した際、政宗に刀を預けて丸腰のまま陣所を案内したとされる巷談、秀吉が徳川家康に対して関東移封を伝えたとされる巷説「関東の連れ小便」、どちらも舞台はこの城である。
平成元年(1989年)からの発掘調査で、「辛卯八月日」天正19年(1591年)の銘のある瓦が発見されており、小田原落城後も城の建設が続けられていたことが判明している。
石垣山城 周辺スポット
城山公園(海と城の見える丘)
昭和25年頃までは、自然のままの風致で、森林公園として市民に親しまれてきましたが、昭和30年神奈川県で国民体育大会が開催されるのを期に、城山陸上競技場や城山庭球場を建設、その後戦没者の慰霊塔や散策路を整備されました。
平成28年、慰霊塔周辺の樹木を伐採し、相模湾や小田原城が一望できます。
石橋山古戦場
西国の武士を従えた桓武平氏は、保元の乱、平治の乱における貴族の内部争いを利用して勢力を広げ政権を握り、これに対し東国武士に信望のあった清和源氏は、治承4年(1180)高倉宮以仁王の平氏追討の令旨を掲げて、源頼朝が伊豆で挙兵しました。
伊豆・相模の武将の援軍を得て300余騎を従えた頼朝は、鎌倉に向かう途中の石橋山で前方を平氏方大庭景親の軍勢3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれ大苦戦となりました。これが「石橋山の合戦」です。
10倍を超える敵の軍勢に頼朝方は敗れ、箱根山中に逃れた後、真鶴から海路安房(千葉県)へ向かいました
長興山紹太寺
江戸時代の初期(寛永、寛文、万治の頃)小田原藩主であった稲葉一族の菩提寺です。開山は宇治万福寺から招かれた鉄牛和尚です。
寛永9年(1632)将軍家光は、自らの政権をより強固なものとするため、側近であった幕府老中職の稲葉丹後守正勝を関東支配の鍵となる小田原城主としました。稲葉正勝の母は、将軍家光の乳母をつとめた春日局です。
漁港の駅TOTOCO小田原
小田原市が事業主体となり、整備を進めた「漁港の駅 TOTOCO小田原」は、水産業の振興と地域活性化を図ることを目的とした施設です。
鮮魚、活魚及び水産加工品などの地場の水産物の販売や飲食を核として、地場産の農産物、土産物等の提供を行い、さらに、小田原の観光や地場産品のPRなど情報発信をしています。
石垣山城 周辺宿泊施設

























