多賀城(日本100名城)

見どころ
- 2024年に国宝に認定された古代文書の石碑
- 1000年以上前の遺跡が広域に渡って多数残る
- 土塁や空堀跡
- 復元された南門

高さ15m 横10.5m 幅6.6mの復元された南門と築地塀。
2024年に完成。

国宝の多賀城碑は724年に多賀城が創建され、762年に修造されたことを記しており、他の文献にはない貴重な情報が記載。
概要
多賀城(たがじょう)は、宮城県多賀城市にあった古代城柵。国の特別史跡に指定され(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)、出土品は国の重要文化財に指定されている。多賀柵(たかのき)とも。
奈良時代より陸奥国府や鎮守府が置かれ、平安時代(11世紀中頃)まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。
別名 | 多賀柵 |
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城郭構造 | 古代城柵 |
築城主 | 大野東人 |
築城年 | 神亀元年(724年) |
遺構 | 政庁跡など |
指定文化財 | 国の特別史跡「多賀城跡 附 寺跡」 |
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。
創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。
第1期は724年 – 762年、第2期は762年 – 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 – 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、第4期は869年 – 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。
なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載。
多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定される。この国府のほか鎮守府が置かれ、政庁や食料貯蔵用の倉などを設け、附属寺院が築かれていた。
霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。北方の備えとして石巻平野から大崎平野にかけては天平五柵(牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵・不明の1柵)を設置、これらは養老4年(720)、石背国・石城国・陸奥国に三分された陸奥国をふたたび統合し、多賀城という新国府の建設により、弱体化した陸奥国の支配強化を図った。
これにより、奈良時代の日本では平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

南北朝時代には後醍醐天皇率いる建武政府において、東北・北関東を支配する陸奥将軍府を多賀城に設置しました。
近代の調査
多賀城跡とその周辺の調査が昭和36年(1961)から開始され、外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860m、築地塀や柵木列をめぐらせた政庁域が確認された。
その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの築地塀で囲んだ区域があり、主要な建物の跡と見られる礎石や柱穴が多数確認され、正殿と考えられた。
多賀城政庁東門跡に隣接して陸奥国百社を祀る陸奥総社宮がある。陸奥国一宮(いちのみや)鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。
1966年4月11日、遺跡は国の特別史跡に指定された。その後も発掘調査が進展した結果、多賀城跡一帯とともに多賀城廃寺跡、館前遺跡、柏木遺跡、山王遺跡などを含む範囲が追加指定されている。

広大な史跡の為に発掘調査をしたのはこれでも、ほんの一部。
広大な敷地が残っているので、これから大発見の可能性もあるポテンシャルがあります。
文化財・国宝
- 多賀城碑(古文書) – 1998年(平成10年)6月30日に国の重要文化財に指定、2024年(令和6年)8月27日に国宝に指定。
国の特別史跡
- 多賀城跡 附 寺跡1922年(大正11年)、国の史跡に指定。
1965年 史跡範囲の追加指定。
1966年 国の特別史跡に指定。
1974年・1978年・1980年・1984年・1990年・1993年、史跡範囲の追加指定。
アクセス
- 鉄道:JR東北本線(仙石東北ライン)国府多賀城駅より政庁跡まで徒歩約10分。
- 最寄IC:三陸自動車道・多賀城IC