鹿児島城【日本100名城】

鹿児島城は、1601年に島津家久が築いた平城で、「鶴丸城」とも呼ばれています。天守は設けず、背後の城山を天然の要害とする構造が特徴です。

鹿児島城は薩摩藩の政庁として機能し、幕末には薩英戦争の舞台にもなりました。明治維新後に多くが失われたが、現在も石垣や堀が残り、藩政の中心地の面影を伝えています。

鹿児島城の見どころ

遺構ポイント

鹿児島城(鶴丸城)の主な遺構ポイントは、2020年に復元された国内最大級の「御楼門」、幕末の弾痕が残る「本丸・二ノ丸の石垣」、城を囲む「水堀」です。
天守を持たない薩摩藩独自の「平城」構造や、鬼門除けの「隅欠(すみおとし)」など、石垣に刻まれた歴史的価値が最大の魅力です。
1877年の西南戦争で政府軍の銃撃を受けた弾痕が現在も多数残っています。

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
日本100名城スタンプ
・鹿児島まち歩き観光ステーション
 営業時間:9:00~17:30
・黎明館
 営業時間:9:00~18:00(入館は17:30)
 ※月曜休館

■御城印販売
・鹿児島まち歩き観光ステーション
 営業時間:9:00~17:30

鹿児島城 周辺天気

別名鶴丸城
城郭構造平山城
天守構造なし
築城主島津忠恒
築城年1602年(慶長7年)
主な改修者島津吉貴
主な城主島津氏
廃城年1872年(明治5年)
遺構石垣、堀、石橋
指定文化財国の史跡、天然記念物

概要

江戸時代初期に島津忠恒によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。平城や山城とする説もある。

城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡された。その後島津忠恒は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。

これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。

本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。

慶長11年(1606年)に大手虎口の橋が堀に懸けられ、慶長17年(1612年)に「御楼門」という大手門の櫓門が建てられる。1873年(明治6年)には御楼門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が残されている。

鹿児島城の歴史

慶長6年(1601年)に島津忠恒(家久)により築城される。四神相応の地として選定された。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は西軍側に属して敗北し、責を負って引退した島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、慶長9年(1604年)に完成する。

忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになる

鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でシロアリ被害が多く、幾度も倒壊、焼失したが、そのたびに建て替えが行われた。しかし、1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。

1871年(明治4年)の廃藩置県の後、鹿児島城には鎮西鎮台第二分営が置かれたが、1873年(明治6年)の火災によって本丸が焼失、このとき御楼門も焼失した。1877年(明治10年)の西南戦争では二の丸が焼失した

城下町

鹿児島城の城下町は町人地である上町(かんまち)、下町(しもまち)、西田町(にしだまち)及び武家地である上方限(かみほうぎり)・下方限(しもほうぎり)と呼ばれる5つのエリアに分かれ46町から構成されていた。俗に町方三分・武家七分と呼ばれ幕末時点では居住人口の9割が武士階級であった。明治時代の市制施行時に城下町に当たる区域は全て鹿児島市を構成することとなった。

また、城下町及び城下町に隣接する鹿児島近在には薩摩藩の地方支配制度である外城制は適用されず、鹿児島藩庁の直轄支配を受けた。

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アクセス

公共交通機関
・JR日豊本線「鹿児島駅」徒歩約12分
・市電「市役所前」または「水族館口」徒歩5分

■車・バイク
・九州自動車道「鹿児島IC」から約10分
※黎明館駐車場(無料、125台)

鹿児島城 周辺スポット

桜島

鹿児島のシンボルといわれる桜島は、北岳・中岳・南岳と相接している複合活火山で、古代から噴火の記録が数多く残っています。
東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77平方kmで、1914年に起きた噴火により、大隅半島と陸つづきになりました。
海の中にそびえ立つその迫力は観光地としても人気で、日本の地質百選や特定16火山のひとつにも選ばれています。

仙巌園

仙巌園は、万治元年(1658)に島津家19代光久によって築かれた島津家の別邸です。28代斉彬がこよなく愛し、篤姫や西郷隆盛も訪れた美しい大名庭園で、錦江湾と桜島の雄大な景色を望むことができます。園一帯は、平成27年(2015)に「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。

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照国神社

島津家第28代当主・島津斉彬公を祀る神社です。鹿児島市で最も大きな神社として、多くの参拝者が訪れています。
文久3年(1863年)、天皇から島津斉彬公に照國大明神の神号が授けられ、翌年、南泉院跡に社殿が建てられ、照國神社となりました。
西南戦争により社殿と宝物を焼失しました。

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鹿児島城 周辺宿泊施設

鹿児島城 周辺グルメ

鹿児島県の城を攻める

鹿児島県

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鹿児島城【日本100名城】: 31.598292, 130.555649
知覧城【続日本100名城】: 31.367591, 130.443503
志布志城【続日本100名城】: 31.483434, 131.107546
清色城跡(きよしきじょう): 31.806376, 130.425010
高山城跡: 31.317067, 130.966542
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鹿児島城【日本100名城】
鹿児島城【鹿児島市】
標高107mの中世上山城跡(城山)の東麓に、島津家久が1601年に築城を開始し、約10年かけて完成させた平城。本丸と二の丸の二つの曲輪から構成され、天守も櫓もないシンプルな城だった。本丸と二の丸の石垣がほぼ完全な形で残されている。



遺構:石垣・堀・石橋
復元建築:御楼門
縄張り:平山城(県指定史跡)

鹿児島城データベース
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知覧城【続日本100名城】
知覧城【南九州市】
標高170mのシラス台地に築かれ、約40mの切り立ったシラス崖によって本丸、倉ノ城・今城・弓場城の4つの独立した曲輪に分けられた城。江戸時代は武士団の集住地域として整備された為、現在も武家屋敷が残っている。



遺構:曲輪・土塁・虎口・空堀
縄張り:山城(国指定史跡)
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志布志城【続日本100名城】
志布志城【志布志市】
志布志城は内城・松尾城・高城・新城の4つの城郭から構成された城。島津氏や肝付氏が争った大隈・日向地方の要塞だった。シラス台地を巧みに生かした深い空堀や土塁が特徴です。



遺構:土塁・虎口・曲輪・堀切
縄張り:連郭式 山城(国指定史跡)
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清色城跡(きよしきじょう)
清色城跡【薩摩川内市】
島津氏の家臣である入来院氏の居城で、豊臣秀吉による九州征伐後に島津氏の直轄地になる。1613年に入来院重国がこの地に戻り、地頭として入来麓に仮屋を構えた。この地方特有のシラス台地を切り取った断崖絶壁の切通しが見どころ。



遺構:土塁・曲輪・堀
縄張り:群郭式 山城(国指定史跡)
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高山城跡
高山城【肝付町】
戦国時代にこの地をおさめた肝付氏の本拠地で、島津氏と対立して1573年に落城する。天険(山)を利用した山岳戦に適した構造で、本丸・二の丸・空堀などが残る。かつて18代にわたり使われた歴史ある要塞跡です。



遺構:土塁・空堀
縄張り:山城(国指定史跡)