【福岡県】水城

続日本100名城土塁,続日本100名城

CASTLE DATA FILE.116

登城日:2026年4月1日
交通手段:JR鹿児島本線「水城駅」目の前
ステータス:続日本100名城・国指定特別史跡
ジャンル:古代防塁
遺構:土塁・門跡
復元建築:ー
スタンプ:JR水城駅構内で押印
御城印:ー

大和朝廷が大宰府防衛で築いた 長さ1.2kmの巨大土塁

九州遠征7日目 最終日の2城目は福岡県の水城です。
太宰府市と大野市にまたがる水城は続日本100名城に選定され、国の特別史跡に指定されています。

太宰府は奈良・平安時代に九州を統治する政庁であり軍事拠点でした。
東北の多賀城、奈良の平城京、九州の太宰府は、この時代における重要なファクターとなります。

水城は一般的にイメージする城とは異なり、いわゆる防衛のための土塁になります。
この独特なエリアは非常に興味深いので、写真と共に記載していきます。

午前中に吉野ヶ里遺跡に行き、弥生時代や城のルーツを学んだ後に電車で移動。
吉野ヶ里公園駅から二日市駅で乗り換え、鹿児島本線「水城駅」で下車。約1時間ほどで到着です。
西鉄「下大利駅」からも近いので、電車の場合はこの2つの駅が最寄りとなります。

水城駅を下車すると、駅の目の前には土塁断面広場があります。

見た目は普通の土にしか見えませんが、これこそが西暦664年に造られた土塁の遺構です!

基底部の幅は80m、高さは9mもある巨大土塁です。
版築工法という砂土と粘土を交互に何層にもつき固める手法。強度はありますが手間を要する大土木工事となります。

どこまでも続く土塁。写真は西堤となります。
この土塁は大和朝廷が太宰府防衛のために、国家プロジェクトとして築かれました。

水城は西側の吉松地区と東側の国分地区の2つのエリアに分けることができます。
土塁の規模は長さが約1.2kmにも及び、土塁の前には水を貯めた外濠が設けられました。

土塁沿いを歩くことができ、道の前には外濠跡が確認できます。

現在は電車の開通と道路が通されたので、陸続きだった土塁が幾つか分断。
そのため大きく分けて、西エリアと東エリアで分類されています。

何故これほどまでに巨大な土塁を構築する必要があったのか。
キーポイントは西暦663年の「白村江の戦い」にあります。超要約で解説!

日本の大和朝廷は朝鮮の百済と強い関係がありました。しかし、百済は唐(中国)と新羅(朝鮮の新勢力)に侵攻されます。

百済から救援要請があり、西暦660年に大和朝廷は救援の軍を送ります。
しかし、前述の白村江の戦いで大敗をしてしまいます。

次なる標的になるであろう日本への侵攻を警戒した大和朝廷は、九州の政治の中心地となる太宰府を防衛するために城を築きました。

手書きのスケッチ。
大きさや距離感などはラフなので適当です。雰囲気だけ!

太宰府の周囲の山に幾つも城を築き、平地には土塁で地域全体を囲み込む大プロジェクト!
城は朝鮮式山城と呼ばれる形式で、尾根や谷に至るまで数kmという規模で造られた、土塁や石垣の防壁が特徴です。

個人的なイメージとしては中国の「万里の長城」のような感じでしょうか。

1300年以上前に我が国が、これだけの土木工事力を持っていたことも驚きですし、日本という国が組織化されていて、朝廷の指示で大きな物事を動かすことができたことも、ワタクシの想像を超えていました。

ちなみに、大和朝廷によって造られた朝鮮式山城は、西から進軍してくることを想定して、山口県、香川県、奈良県にも築かれました。

結果的には唐と新羅は侵攻してくることはありませんでしたが、今でも太宰府政庁 防衛ネットワークの遺構は良好に残っています。

この水城もその一つとなります。

土塁断面広場の線路を挟んで反対側には西門跡があります。

水城駅から西門の向かう途中に、盛り土によって小高い場所があります。

父子嶋(ててこじま)と呼ばれるこの場所には伝承があり、水城の土塁を造る際に多くの農民たちが駆り出されました。
毎日重たい土を運び、過酷な労働で国家プロジェクトを支えました。

近くに住む父と子が疲労困憊のなか、土を運んでいると、土塁完成の歓声が湧き上がりました。
父子はこの場所で気が抜けたように、へなへなと座り込んだと伝わります。
そして運んだ土をこの場に投げ出したことで、この盛り土ができたという伝承。

水城駅から見た父子嶋。
伝承はあくまで伝承ですが、発掘調査では土器などが出土していることから、何かしらの施設があったと考えられます。

国の特別史跡に追加指定もされており、現在は保存のために立入禁止になっています。

西門跡。
水城の1.2kmに及ぶ土塁には2つの門が設けられていました。

土塁の切れ目に西門が設けられていました。

裏側からも見てみます。
楼門のような立派な門だったと考えられています。

西門脇の土塁。
この先は線路があるので、土塁が途切れます。再び土塁断面広場側に行き、東堤を目指します!

土塁沿いを歩くことができる水城ですが、分断されていることで、西エリアと東エリアの往来がスムーズにできないので注意です。

かなり遠回りを強いられます。

国分エリアにはガイダンス施設があるので、歩いて向かいます。

西と東を分ける御笠川。
この川も当時から流れていました。

Googleナビで国分エリアの東堤に向かいましたが、どえらい目に合いました。

土砂降りの中、田んぼ道を歩き、橋もない川を渡るよう指示され、横断歩道も信号もない両側4車線の国道を渡るよう指示され、本来よりもかなり遠回りをしました。

国分エリアに向かう道中で撮影した大野城。
大野城、基肄城、水城は同じ目的で造られた防衛施設です。

左側には水城の東堤、奥には大野城がある山。
大野城と水城の、この位置関係が非常に重要です!

やっとの思いでガイダンス施設までやってきました。

土塁の下に造られたコンクリートの施設が、水城のガイダンス施設で、こちらにパンフレットが置いてあります。映像でも水城について知ることができます。

ガイダンス施設の近くには石碑が建っています。
背後には巨大な土塁と展望所があります。

ガイダンス施設の前に赤く舗装された道があります。
この道が古代官道で博多湾方面へと続きます。

古代官道を塞ぐように設けられていたのが東門。

東門跡には門の礎石が残っています。
1300年も前に造られた門の痕跡が残っているだけでも凄いです!

礎石を見るかぎりでは、東門は大きな建築物であったことが想像できます。

ガイダンス施設の上には展望所があります。

展望所。
まさにこの場所こそが土塁の上になります。

展望所から見た東門跡。
道路を塞ぐように東門が行く手を阻みました。

展望所から更に山の上の展望台に向かうことができます。

ガイダンス施設のスタッフさんに確認したら、イノシシ対策で柵を設けているので、自分で開けてちゃんと閉めてくれれば大丈夫とのことでしたので、展望台に登ります!

ガイダンス施設から歩いて15分ほどだったと思います。
展望台までの道は完全に山城でした。

強い雨が降っていたので、片手に傘を持ちながら一眼レフカメラを片手に持って登るのは難しいと判断して、道中の写真は撮りませんでした。

雨の中 苦労して登った先には、水城を一望できる絶景が待っていました!
山と山の間の平地を遮断するように木が生えてる場所が水城の土塁です。

左側手前に見える山が、展望台の入口です。
ぐるりと周り込んだ尾根沿いを歩くと展望台に着きます。

土塁沿いに綺麗に桜が咲いています。

電車の開通などによって、一部の土塁は破壊されてはいますが、それでも周辺の景観を保持しながら、よくここまでの遺構を守ってきたなと感心します。

展望台からの市街地。
びっしりと住宅が立ち並びます。

この一帯は山に囲まれたエリアです。

帰りは反対側から下山して住宅街を通ってガイダンス施設に戻ります。
アスファルト補強された山の上に、先ほどいた展望台があります。

山沿いを歩くとガイダンス施設のあった土塁が見えてきます。
展望台がある山は土塁と繋がっており、天然の防壁と人工的な土塁で一帯を防御していたことになります。

西堤と広がる田園地帯。
桜の木の裏の盛り上がった山が土塁です。現在の田んぼが、当時は水濠があった場所になります。

あいにくの雨でしたが、桜が綺麗です。
今回の九州遠征では大野城や基肄城を攻めることは回避しました。
歴史を含めて奥が深いので、また改めて時間をかけて攻めたいと考えました。

しかし水城だけでも周れたことで、大和朝廷における底力を見ることができた気がします。
またの機会に山城を攻めるのが、一層 楽しみになりました。

7日間の九州遠征はとても充実した内容で、計15城を攻略。
九州独自の歴史がありすべての城が個性的でした。