【佐賀県】名護屋城

日本100名城土塁,日本100名城,石垣,空堀,高石垣

CASTLE DATA FILE.105

登城日:2026年3月27日
交通手段:唐津城から車で30分
ステータス:日本100名城・国指定特別史跡
ジャンル:梯郭式 平山城
遺構:石垣・空堀・井戸跡・櫓台・虎口
復元建築:ー
スタンプ:佐賀県立名護屋城博物館で押印
御城印:佐賀県立名護屋城博物館で購入

大陸侵攻の前線基地として、豊臣秀吉が築いた一大軍事都市。

九州遠征2日目 2城目は佐賀県の肥前名護屋城に初訪城です。
唐津城からは車で30分なので、セットで攻城する人も多くいます。

名護屋城は豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役の際に大陸侵攻の軍事司令本部及び、前線基地として築城したのが始まりです。

全国の大名が集結し、名護屋城の周辺に150以上もの陣屋を構えたことで、一大軍事シティが完成しました。
城の周りには城下町が築かれて、最盛期には20万人を超えるほど繁栄しました。

在城期間は日本経済の中心地だったとも言われています。
築城は1591年から始まり、全国の諸大名が普請をして僅か5ヶ月で築城したと伝わります。大陸侵攻は国家プロジェクトだったことがデータから見ても理解できます。

名護屋城は日本100名城で国の特別史跡です。
名護屋城には大手口付近に無料の駐車場があります。

そして駐車場から早速見えてくる東出丸の石垣。突き出した形状をしていて、まるで駐車場から登城してくる観光客を見張っているようです。

駐車場からチケット売場方面に歩くと、大手口の井戸跡があります。

石垣で構成された井戸で通路よりも低い位置にあるので、埋まっていた井戸跡を一般に見れるように整備したのでしょうか。

入城チケットを購入すると、城内のパンフレットをもらうことができます。名護屋城は広大な城郭なので地図は必須です。

名護屋城に集結した大名の看板。

豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、伊達政宗、黒田官兵衛・長政、石田三成、島津義弘、上杉景勝、直江兼続、真田昌幸、真田信繁(幸村)、加藤清正、福島正則、宇喜多秀家、長宗我部元親、津軽為信、藤堂高虎、細川忠興、毛利秀頼などなど、まるでゲームのような戦国オールスターズが集結しました。

これだけの大名が陣を構えた城は全国でも名護屋城のみです。

チケット売り場から見た大手口。
この時点で既に名護屋城の凄さをヒリヒリ感じます。

大手口。左側は三ノ丸の石垣で、右側は櫓台になります。

内部から見た大手口。
想像を超えた迫力の石垣になかなか先に進むことができません。

石垣の上部や隅石は失われていますが、綺麗に残っています。

大手口の櫓台。
櫓台には二重櫓が建っていました。階段など綺麗に残っています。

現地の解説看板の写真。
大手口を抜けると登城坂を上る設計となっています。

大手口の三ノ丸側石垣は石垣が崩れていますが、形状を留めており、模型の通り大手口の箇所が突き出した形状になっているのが分かります。

登城坂を上って三ノ丸→本丸の順で周ります。
登城坂の左側には三ノ丸があり、三ノ丸を囲むように石垣が形成されています。

登城坂はおよそ幅8m、距離100m。この長い距離全てが石垣です。

登城坂に鏡石のような大きな石垣を確認。
加工された石材で石が積まれており、豊臣期の石垣技術における、最終形態の先進的な積み方です。

登城坂の右側は広場となっており、建物の跡が発見されています。
そして、東出丸は突き出した形状の曲輪で、駐車場から見えた石垣がこの東出丸の石垣となります。

登城坂を上りきると、T字路になり分岐します。
右側が東出丸、左側が三ノ丸に続く道。

東出丸の櫓台石垣。
櫓台の石垣は自然石を使った野面積みです。

櫓台石垣。
ここには二重櫓と門がありました。

東出丸の櫓台も上部は壊れていますが、綺麗に石垣が残っています。
裏側に櫓内部に入るための階段も残っています。

櫓台の上から見た東出丸。
東出丸からは三方角を望むことができ、名護屋城の東側を監視と警護する曲輪でした。

櫓台から見た門跡と三ノ丸の石垣。
門脇には平屋建ての多聞櫓が建っていました。

東出丸から見た大手口脇の曲輪。防御力の高い高低差を感じることができます。

東出丸から見た駐車場と名護屋城博物館。

続いて三ノ丸に入っていきます。
登城坂から180°回り込むような設計となっています。

三ノ丸の門跡の石垣は特に壊れてしまってますが、櫓門形式の立派な門が三ノ丸を守っていました。

門跡を抜けると三ノ丸が広がります。
三ノ丸は本丸を守る重要な曲輪でした。

三ノ丸には井戸も残ります。現在は深さ2mほどですが、当時はもっと深く掘られていたと考えられます。

三ノ丸はから見た本丸の石垣。
崩れた石垣でさえ愛おしく感じてしまいます。

そして本丸に行くには本丸大手門跡を抜けます。名護屋城は廃城後に石垣は人為的に破壊され、他の城に転用されたりしました。

本丸大手門も大部分が意図的に壊されたように思えます。

本丸大手門の桝形部分。
石垣は崩れていても、その形ははっきりと残っています。

本丸大手門は二層の豪壮な櫓門であり、後に仙台城主 伊達政宗が仙台城の大手門に移築したと伝わります。
仙台城の大手門は国宝でしたが残念ながら仙台空襲によって焼失しました。

仙台城で撮った解説板。
仙台城の大手門は日本最大規模だったそうです。

この豪壮な門が名護屋城のこの場所にあった可能性があると考えると、より一層 仙台城の大手門が焼失したことが悔やまれます。

本丸大手門からから三ノ丸を眺めると、三ノ丸櫓台を見ることができます。
名護屋城で最大規模の櫓です。二ノ丸方面から攻めます。

本丸の南側には、本丸旧石垣があります。
名護屋城は築城後に大規模な改造が行われていることが発掘調査で判明しています。

本丸は南側と西側への拡張が行われており、伴って完全に埋められていた石垣が発見されました。
埋められている高さは10m以上と推定されています。埋められている規模も規格外!

ここでは一部を掘り下げて観覧できるようになっています。

本丸の南側の拡張されたエリアには新しく櫓が建てられました。
城が破却された際に、併せて櫓台も崩されたようで、今は建築物を支えていた土台の石列が残ります。

新石垣櫓台がある本丸南側から撮影した姫のかげ溜池。

同じく本丸南側から見た弾正曲輪の石垣。弾正曲輪の石垣が名護屋城の中でも迫力ある石垣の一つです。

本丸南側から見た馬場と馬場櫓。
馬場は本丸南側の下に設けられた腰曲輪のような細長い曲輪です。後ほど周ります。

本丸南西隅櫓跡。
隅櫓の隅石が発見されています。天守と同様に物見としての役割がありました。。東西南北10mの規模で二階の櫓だったと推定されています。

地面が赤くなっているのは、名護屋城が破却された際に石垣を崩しただけでなく、30㎝ほど土を盛って礎石は埋められていたそうです。
盛土されていた範囲を赤く分かりやすくして、礎石の遺構は土に埋めてレプリカの礎石を表面に出しています。

礎石がL字になっていることから付櫓があったと考えられています。

そして本丸南西隅櫓の脇には多聞櫓がありました。
礎石から推定すると全長55m、幅8mほどの巨大な多聞櫓でした。

イメージとしては規模的には福岡城の現存している多聞櫓と同規模くらいです。

多聞櫓周辺から見た二ノ丸跡。

多聞櫓周辺から見た弾正丸。石垣も確認できます。

本丸跡。
本丸の広さは東西130m、南北125mで標高は約90mです。

本丸には御殿が立ち並んでおり、北西隅には天守が建っていました。

天守台の隅部と遊撃丸。
天守台の直下には遊撃丸という曲輪が配されていました。

そして、名護屋城のシンボルでもある天守が建っていた天守台。
名護屋城の天守は望楼型5重7階で、高さは25m〜30mと推測されています。

金箔瓦も出土していることから、豊臣大坂城のような豪壮な天守だったと思います。

天守台には16個の礎石が現存。24個の礎石で高層建築の天守を支えており、穴蔵となる地階には玉石が並べられていました。

天守台から見た遊撃丸。
崩された石垣と土塁が残ります。水手曲輪と二ノ丸の中間にあり、武器や兵糧を格納していた建物がありました。

天守台から見た景色。やや霞んでいるものの晴天で美しい玄界灘を見ることができました。
間違いなく豊臣秀吉も見た景色。

この先には朝鮮半島があります。まさに名護屋城とこの景色は豊臣秀吉の夢の跡です。
霞が無い時は対馬も見えるようです。

天守から見た呼子大橋。
ベンチに座って、ただただ美しい海を眺めていました。

天守台から見た多聞櫓跡。
多聞櫓と天守の間はスリットになって引っ込んでいます。

天守から見た水手曲輪。
水手曲輪は本丸の北側の下に設けられた曲輪で、水利の悪さが欠点だった名護屋城は、水手曲輪に貯水池を造って雨水を貯めて使用していました。

この水手曲輪を通過することで遊撃丸に繋がります。

本丸北口門から水手通路を下り、上山里丸方面に行きます。

水手口に向かって坂道を下ると、水手曲輪や本丸の石垣を見ることができます。
雛壇状に段々になった石垣が特徴です。

水手通路を下りきると民家があります。
こちらの民家の下には高さ8m〜10m程の立派な石垣を見ることができます。

絵図では水手通路の麓には櫓門形式の水手口門があったので、この民家のあたりかなと思います.
水手通路の下には山里曲輪、下山里曲輪、上山里曲輪が展開されています。

上山里丸の階段を上ると、草庵茶室跡と井戸跡があります。

この上山里丸は豊臣秀吉が日常を送った場所です。
絵図には御殿などが描かれており、草葺の櫓門と草庵茶室と思われる建物が描かれています。

発掘調査で明らかになった、茶室跡、井戸、石段、柵列を盛土をして遺構保存した上に新たな石で遺構表示をしています。
秀吉の茶室は全国に複数あったと考えられていますが、実際に茶室の跡地が見つかったのは現段階では名護屋城のみだそうです。

茶室跡の石垣。
続いて、上山里丸から二ノ丸に移動します。

二ノ丸には船手口から入城します。
船手口には櫓門と二重櫓が接続していました。左側が櫓台となります。

歴史博物館に展示されている模型は細かく再現されており分かりやすいです。

この場所に櫓門が立っており、道の反対側が櫓が建っていた石垣です。

船手口から見た遊撃丸と天守台。
奥の高くなっている曲輪が本丸の天守台になります。

船手口を抜けると二ノ丸が広がります。
名護屋城の幾つもある曲輪の中で、広大な敷地を誇る曲輪です。

二ノ丸の西側には二ノ丸合坂と呼ばれる階段付きの石垣が立ち並びます。

総延長110mに合坂と呼ばれる相対する石段が3か所あります。城の西側を防御する施設と思われ、模型では土塀と多聞櫓があがっていました。

随所で失われた石垣は人為的かつ徹底的に破壊されています。
また、発掘調査では階段の最下部から大量の瓦や軒丸瓦が出土しています。

瓦を捨てた後に石垣を破却したことが判っています。

迫力ある石垣に見惚れて記述していなかったのですが、桜も見頃を迎えており至る所で綺麗に咲いていました。
完全に花より石垣。

武器や兵糧を補完する施設として二ノ丸は機能しており、長屋建物跡が見つかっています。
分かりやすく礎石の位置を表しています。

船手口から見た遊撃丸の石垣と天守台。
遊撃丸の石垣はV字型に破壊されていますが、綺麗に残っています。

秀吉の死後、1602年には唐津城に建物は移築され、一国一城令で徹底的に破壊されました。
その後は歴史の表舞台から消えて長い眠りについていましたが、そのままの状態で残っています。

遊撃丸の虎口跡。
天守台の直下にある曲輪なので、本丸が綺麗に見えます。

遊撃丸では1593年に明国との講和使団の遊撃将軍が滞在してもてなしを受けた曲輪として伝わります。

この講和によって日本は朝鮮半島から撤退。しかし慶長期に再び出兵することになります。

遊撃丸から見た天守台。
天守台は特に石垣が崩されており、石垣の原型は残っていません。やはり城のシンボルを壊すことで廃城の証となったのでしょうか。

もしくは、天守台には質の良い石と技術が盛り込まれていたので、他の城で転用するにはちょうど良かったのか。

理由は謎ですが、それも全て含めてロマンです。
水手曲輪から見た天守台は見上げるほど大きく、この上に25m以上の高層天守が上がっていたことを妄想を膨らませます。

遊撃丸から本丸沿いを歩き、本丸石垣を堪能しながら馬場方面に向かいます。

同じく二ノ丸から見た本丸石垣。
もはや崩れた石垣さえアーティスティックです。

馬場は本丸の南側にあり、南西の隅には先ほど見た本丸南西隅櫓の石垣を見ることができます。
崩落の危険性があり、一部修復がされています。

馬場に設けられた馬場櫓跡。
鏡石のような大きな石材も使われているのが特徴。

平成7年に馬場櫓は解体修理がされています。

馬場から見た本丸南側石垣。
馬場と本丸は高低差が12m程で、馬場も崩落の危険がある箇所は、積み直しの修復をしています。

あくまでこの崩れた姿が、名護屋城にとっては正の姿なので、崩れた姿のままに修復されています。
少し不思議な感覚です。

馬場は三ノ丸と二ノ丸の連絡路のように繋いており、馬場の三ノ丸側には三ノ丸櫓台があります。

三ノ丸櫓台には名護屋城で最大規模の櫓で、石垣は破壊されていますが鏡石が今でも残ります。

櫓台の脇には門の礎石もあり、馬場と三ノ丸を仕切っていた門があったと思われ、枡形空間になっています。
左側が三ノ丸櫓台、正面は本丸の石垣。

三ノ丸櫓台の鏡石。
ど迫力な巨石で、この鏡石も城内最大規模となります。この櫓台の上には二重の櫓が上がっていました。

名護屋城に幾つもあった櫓の中でも、ここは櫓台の大きさが別格。

三ノ丸櫓台の入口階段。

馬場から見た弾正丸の石垣。弾正丸の石垣は迫力があります。
馬場から弾正丸に移動します。

弾正丸には秀吉の姻戚関係にあった五奉行の筆頭、浅野弾正長政が住居していた曲輪です。

弾正丸から見た本丸石垣と、本丸南西隅櫓跡。

弾正丸から見た馬場と本丸南側。
何とか身体を乗り出して、弾正丸の石垣のも写真に映るように頑張って撮影しました。

弾正丸には名護屋城の搦手口が設けられています。
搦手口は桝形になっており、堅い守りの虎口となっています。

弾正丸は二ノ丸と接続した重要な曲輪なので、信頼のおける浅野長政に守らせていたと考えられます。

模型では櫓門形式の城門と続櫓、二重櫓が一体化した造りになっています。
かなり防御力高めの設計です。

下から見た搦手口。
ここに模型のような城門があったと考えると、敵だけではなく、この地に集められた大名も反旗を翻す気は起きなくなります。

名護屋城には有力大名に力を見せつける役割もあったと個人的には考えています。
搦手口から下におりて最初に登城した大手口に戻ります。

下から見た弾正丸の石垣
現在発掘調査をしているのでしょうか。弾正丸の下には至る所にブルーシートが掛けられていました。

下から見た馬場の石垣は1番迫力あります。
幾つもV字になって石垣が崩れているのは、破却された跡になります。

石垣だけが残る名護屋城ですが、豊臣秀吉の権威を感じる迫力。
名護屋城に訪れる人は皆、壮大な石垣を目の当たりにして驚いたと思います。

現代の我々が見ても重機が無い時代に、これだけの土木工事と石垣を運んで積んだ労働力に驚かされます。

再び大手口に戻りました。
三ノ丸の南東隅の石垣。

大手口の近くには名護屋城博物館があるので、マストで行くべき施設です。
御城印も博物館で販売しています。

秀吉のプライベート空間だった山里丸にあった草庵茶室が博物館の1Fに復元されています。

床や壁も竹で作られた空間で、全面的にグリーンで奥ゆかしさを感じます。
派手好きな秀吉のイメージとは真逆な落ち着いた雰囲気。

展示されている出土した瓦や皿なども展示されています。

博物館に展示されている模型は、広大な名護屋城の全体をイメージできるので必見です。

大陸侵攻で使用された軍艦。
軍艦に城郭建築の櫓が鎮座した豪勢な造り。狭間も設置されており、海に浮かぶ城というイメージです。

博物館の展示品で目玉は、やはり復元された黄金の茶室です。
先ほど見たプライベートな草庵茶室とは180°異なる秀吉らしい派手な空間。

政治・外交上の重要な場面で披露された黄金の茶室は、秀吉の権威と財力を見せつけ圧倒するツールの一つでした。

この眩しすぎる空間に秀吉がいたら、まるで神か仏の様に見えたのかもしれません。
それくらい神々しく輝いています。

博物館を観覧した後は、山里口に向かいました。
山里口は現在、独立した場所にある為一度城外に出る必要があります。

駐車場から遠くはないのですが、山里口の前にも駐車場があったので、車で来た方は効率よく車で周った方が良いかもしれません。

上山里丸に通じる虎口が山里丸で、自然石をふんだんに使った野面積みを見ることができます。

山里口はかなり防御力が高い造りになっており、何度も折れ曲がる連続枡形になっています。

平成に最小限にとどめた解体修理が行われ、階段も整備されました。当時の様子を一番残しています。

この連続枡形は見ものです。
秀吉のプライベート空間に繋がる上山里丸に繋がっているからでしょうか。至る所に鏡石の様な巨石も使われていて威圧を感じます。

枡形の上部。本来はここから上山里丸に繋がりますが、現在は広沢寺の敷地のため階段の先には進むことができません。

熊本城の連続枡形をコンパクトにしたような造り。
難攻不落の熊本城を築城した加藤清正は、後の唐津城主となる寺沢広高と共に、名護屋城の普請奉公を担当していました。

普請奉公とは現在の工事責任者です。
熊本城の築城における設計のヒントは、この名護屋城にもあったと思われます。

山里丸の前にある畑。
堀下がった平場となっており、堀の跡だったと思われます。
まだ太閤井戸など見るべき箇所はありましたが、おおよそ名護屋城を周ることができました。

この時点で既に3時間が経過。

本来は大名の陣屋も周りたかったのですが、時間の都合上何とか前田利家陣屋だけは周りました。
名護屋城の駐車場からは歩いて5分ほどで到着できます。

前田利家陣屋では発掘調査が進められているのかブルーシートが被せてありました。

前田利家陣屋の居館にあった大手虎口。
陣屋なのにこの石垣。最大で高さ5mで、名護屋城に劣らぬ造り。

立派な城レベルの枡形虎口です。
加工された石材で積まれており、先進的な石垣は徳川家康の陣屋など、限られた大名の陣屋でしか見ることができません。

前田利家陣屋は名護屋城からも近いのでオススメです。専用駐車場もあります。

前田利家陣屋から見た名護屋城。
東出丸の石垣が見えます。

また名護屋城には再城して、陣屋めぐりをしたいと思います。
計画より時間オーバーしましたが、それでも十分に楽しむことができました。

豊臣秀吉が築いた大坂城に継ぐ巨大城郭だったと言われている名護屋城。
今の大坂城は、徳川幕府によって築かれたもので秀吉時代の大坂城は幻の城として地中に眠っています。

しかし、この遠い佐賀の地に確かな片鱗を見ることができました。