【宮崎県】飫肥城

CASTLE DATA FILE.110
登城日:2026年3月29日
交通手段:志布志城から車で60分
ステータス:日本100名城・国指定史跡
ジャンル:群郭式 平山城
遺構:土塁・堀・堀切
復元建築:御殿・櫓門・門・塀
スタンプ:飫肥城歴史資料館で押印
御城印:飫肥城歴史資料館で購入
戦国期に伊東氏と島津氏が100年 領有を争った城
九州遠征4日目 3城目は宮崎県の飫肥城に移動です。
志布志城からは車で下道を走って1時間ほどで到着できます。
飫肥城といえば伊東氏と島津氏が争った城として有名です。
また、飫肥城下町は伝統的な町並みとして、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
九州の小京都とも称されています。
飫肥城に到着するまでは山道が多く、本当に九州の小京都と呼ばれるような場所があるのか不安になりました。
しかし、飫肥城一帯の城下町に到着すると多くの観光客がいて雰囲気が一変します。
無料の専用駐車場に停めて、ストレートに飫肥城を目指します。
飫肥城は江戸時代に伊東氏5万1千石の居城で、島津氏との争奪戦が展開された城です。
1588年以降は伊東氏が幕末まで統治しました。

飫肥城の大手門に続く、大手門通り。
飫肥城の始まりは南北朝時代と伝わりますが、現在は江戸時代の風情ある街並みが残っています。

そして飫肥城の主郭の入口となっている大手門。
廃城令によって明治に大手門は取り壊されましたが、昭和53年に新たに造られました。

大手門の前に設置された石垣で補強された土橋。
大手門は樹齢100年の飫肥杉を使用しており、江戸時代の姿ではなく現存している他の城を参考にデザインされました。
白漆喰の櫓門で高さは12.3m。飫肥城のシンボルとなっています。

大手門前の橋から見た空堀。
武家屋敷通りに沿って堀が巡らせており、門脇は石垣が積まれています。
門脇以外は土造りが主体となっています。

土橋から反対側も撮影。
左側が豫章館。城郭南側はこの空堀を巡らせて防備しています。

風格ある大手門から入城します。

大手門脇の石垣。
隙間なく積まれた切込接、そして多角形に加工された亀甲積み。隅の算木積みも台形型に整えられています。

大手門脇に置かれた礎石。
追手御門臺石垣御門修復と書かれており、現在の大手門を復元工事中に発見されました。
江戸時代の1713年に城門は修復されており、関わった大工や奉行などの名が刻まれています。
まさに未来へのメッセージです。

大手門の枡形。
大手門を通過した敵は、枡形のこの空間で集中砲火を受けます。

面白いのが階段を登ると、更にもう一つの枡形空間になっている点。

枡形の一部が仕切りのようになっており、この個所だけ階段が極度に狭まり大群を阻む設計になっています。

仕切りを裏側からも見ます。
土塀が復元されていることで、枡形の雰囲気が一気に変わります。

土塀の控柱は石材で造られており、石に穴を開けて控を繋いでいます。
桜も綺麗に咲いて、白漆喰とのコントラストが良き。

枡形の階段で確認できる石垣と土塀の折れ。
意図的に鋭角にしているように思えます。
攻撃の死角を減らすためか、その他の理由があるのかは不明ですが、この枡形一帯は技巧的にも感じます。

大手門の階段を上がると土塀と石垣が行く手を阻み、T字になります。
石垣の上には旧中の丸、新本丸があります。

大手門脇西側の土塁。
高さが約4mで、飫肥城にとって貴重な遺構となります。

大手門脇西側の土塁の前にも枡形の門跡があります。この門跡の先には新本丸があります。
右側は新本丸で左側は松尾丸。下部は石垣が積まれており、上部は土造りとなっています。
高低差があり、こちらの門跡は圧迫感があります。

門跡と新本丸石垣。
石垣の色が異なるので、土塀の復元の際に石垣も積み直しなどの修復があったのでしょうか。

新本丸に向かうもう一つの門跡。
石垣の小口は台形になっており、珍しいので撮影しました。

新本丸の南東にある隅櫓の石垣。
新本丸の中で、隅櫓の石垣だけが張り出しており、当時は二重櫓があがっていました。
現在は飫肥城の鐘が移築されています。

石垣の中には落し積みのように長方形の石材を斜めに積んでいます。

犬ノ馬場の土塁。
こちらも高い土塁となっており、大手門脇に見た空堀はこの土塁です。

正面の門から新本丸跡に入城します。

階段から振り返っての一枚。
間口が狭く石垣で囲まれた空間。奥には二重櫓の隅櫓石垣もよく見えます。

新本丸跡は現在小学校になっています。
築城当初は山の上に本丸がありましたが、度重なる地震で地割れが発生したことで、当初は中の丸と呼ばれた曲輪に御殿が移されました。
後に、現在の小学校の場所が本丸となりました。

新本丸には飫肥城歴史資料館があります。唐門の城郭建築物風が特徴です。
内部では甲冑や刀などの展示、飫肥城の歴史について学ぶことができます。

飫肥城歴史資料館の脇から松尾丸へと向かいます。

急な階段の途中には先ほど下から見た桝形の虎口を見ることができます。

松尾丸には御殿が造られています。
花が綺麗に咲いており、素敵な写真を撮ることができました。

江戸時代当時の建物の記録が残っていない為、京都二条城など江戸時代初期の御殿を参考に設計され、昭和54年に建てられました。

松尾丸から見た桝形の虎口。
虎口を見下ろすこの曲輪構成を見ると、松尾丸には防御施設があったのかなと感じます。
本丸御殿があった新本丸が小学校になっているので、昭和の建築工事の際にこの地に建てたと思われますが、何となく違和感を感じました。
松尾丸と向かい合うように旧本丸があるので、松尾丸の階段を下りて新本丸に向かいます。

旧本丸も高低差がある山の上にあり、土造りです。
松尾丸と旧本丸は中世戦国時代の縄張りを生かした曲輪と考えられます。

新本丸を仕切る堀切。戦国の城らしさを味わえる貴重な遺構です。
左側が旧本丸で右側が小学校なので堀底に行くことはできないのですが、高さもある堀切です。

旧本丸も門跡には石垣が積まれています。
旧本丸も門跡周りは石垣で、基本は土造り。

坂になっている階段に現れる門跡。
苔に覆われた風情のある門跡になっています。

礎石も残っています。
コンパクトですが枡形になっており、戦国山城から近世城郭に変化させた様子を見ることができます。

上から見た枡形の門跡。
元は城の中心だったので堅固な造りとなっています。

旧本丸は現在、樹齢140年以上の飫肥杉が立ち並んでおり、生命がみなぎるパワースポットです。

旧本丸全体が苔の絨毯になっています。
旧本丸は時が止まったように静かな空間。

低めではありますが、旧本丸の曲輪の周囲には土塁を見ることができます。

旧本丸の入口で見た新本丸との堀切。
このあたりは完全に戦国期の城です。

旧本丸と西ノ丸の堀切。
草木によって写真はうまく撮影ができなかったのですが、かなり深い堀切になっており、旧本丸西側の全体をエグるように掘られています。
さらに南側は酒谷川が流れており天然の要害で守られています。
現在は穏やかで趣ある旧本丸ですが、軍事施設という城の本質を見ることができるので、是非注目して頂きたいスポット。

旧本丸には門と塀が復元されています。
薬医門形式で旧本丸の北側に位置しています。

解説板やネット見ても詳細が全くないため謎の門。
しかし本瓦葺きで城門らしさと風格を感じます。

旧本丸の堀切がどうしても気になり、外側から見に行きました。
裏門の階段を下りて、一般道を歩いてみます。

右側の森は旧本丸と新本丸。
目の前はグラウンドになっていますが、当初はこのグラウンドも城の一部でした。

道路側から堀切を見ましたが、草木が多くて綺麗には見えませんでした。
何となく堀切の形状がうっすら見えます。

新本丸の土塁。
切り落としたように、急勾配な土の壁が続きます。
飫肥城は伊東氏と島津氏が争奪戦を繰り返して100年以上も争った有名な城です。
なんとなく、北側はその片鱗が見える気がします。

右側が新本丸、左側が飫肥中学校。
道路は舗装され、中学校も当然整備するための工事がされていると思いますが、これは堀切もしくは深い空堀だったのでしょうか。
明らかに城郭の形状を残しているように感じます。

飫肥中学校の前の道路を進むと飫肥藩の旧藩校 振徳堂があります。

1831年に飫肥藩13代藩主 伊東祐相が学問所を増改築しました。

振徳堂では後に飫肥西郷と称された小倉処平や、日本外交の礎を築いた小村寿太郎を輩出しました。

八幡馬場通りから武家屋敷通りを目指します。

立派な石垣で囲まれた邸宅。

旧伊東伝左衛門の邸宅。
上級武士の家系で昭和34年まで子孫の方が所有していました。

大手門に続く道は、風情を感じる武家屋敷通り。
飫肥城下町は江戸時代初期の絵図に描かれた街路が、そのままの形で残っています。

武家屋敷通りにある小村寿太郎生家。
小村寿太郎はハーバード大学へ留学し、外務大臣に就任するなど、明治の外交官として活躍しました。

武家屋敷通りを大手門方面に向かうと、城郭南東隅の空堀を見ることができます。
この上にある曲輪が犬ノ馬場。

再び大手門通りに戻ってきましたので、大手門の前にある豫章館を観覧します。

豫章館の門。
豫章館は大手門の目の前に位置しており、格式ある薬医門が唯ならぬオーラを放っています。

豫章館は明治2年に、飫肥藩13代藩主 伊東祐相が飫肥城を出て移り住んだ館となります。
それまでは藩主一門の伊東主水家の屋敷でした。

明らかに御殿建築と思われる建築物。
幕末、明治の混乱の時期の移転だったので、時間と経費を補うために、城内の奥御殿より移築して改修されました。

明治の廃城令によって飫肥城の建築物は取り壊されたので、貴重な当時の遺構となります。
廃城令の前に移築したのが功を奏したことになります。

内部に入ることはできませんが、御殿建築としての名残を各所で見ることができます。
飫肥城下町には見どころスポットが多いのですが、城好きな方であれば豫章館はマストスポットです。

庭園。
豫章館は昭和57年に伊東家から市に寄贈されました。

館の裏には離れの御数寄屋があります。
道中の竹が見事!

御数寄屋では茶の湯や文芸の場として使われていたようです。

御数寄屋も素晴らしいのですが、城好きの方であれば豫章館の御数寄屋の脇から見える空堀は、見どころスポット。
御数寄屋がある場所が、ちょうど南西隅に位置していますので、城郭を仕切る空堀を見ることができます。

御数寄屋の脇に設けられた門。ひっそりと佇んでいます。

この門の控柱が石なので、珍しいので写真におさめました。
城内の土塀の控柱も同様、石の控柱が多く多用されています。
ワタクシが周った城下町はほんの一部で、実際はもっともっと広いので、ゆっくり散策しながら楽しむことができると思います。
城下町も素敵なのですが、ワタクシはそれよりも気になるのがやはり旧本丸の堀切。

諦めが悪いワタクシは飫肥城の目の前を流れる酒谷川の対岸から堀切を確認しに行きます。

飫肥城はこの酒谷川に沿うように築城されているので、完全に天然の水堀となっています。
川沿いをひたすら歩いてみました。

Googleマップで旧本丸の位置を確認して歩くと、ちょうどこの位置に辿り着きました。
残念ながら木が多くて堀切の形を見ることができませんでした。

謎の平場は後ほど調べると西ノ丸ということが分かりました。
家に帰ってから調べると、西ノ丸には日南市の貯水槽がありましたが、貯水槽が無くなったことで立ち入りができるそうです。
貯水槽があったから木が生えておらず、曲輪の平場がよく見えたのですね。
しかも、反対側からは堀切の形もしっかり見えるようです。リサーチ不足で本当に悔しい思いです。

飫肥城は城下町を含めて観光スポットとなっており、むしろ飫肥城は日南市にとって観光スポットの一部という印象でした。
パンフレットも城下町と併せた内容で、飫肥城については、あまり詳しく書いていないのが少し残念。
ブログやサイトを見ながら、遺構を探して歩きましたが、やはり帰ってから見逃したポイントが幾つもあったことに気付き、全体的に悔いが残る結果となりました。
城下町があまりにも推されすぎて、城の情報が少ないので注意が必要です。

城自体はとても素晴らしく、中世城郭と近世城郭がミックスされています。
基本的には旧本丸、松尾丸、犬ノ馬場を観覧することができますが、実際の飫肥城は群郭式という、多くの曲輪が配された城郭でした。
今は形を変えてグラウンドや住宅になったりしていますが、所々に石垣などの遺構が残っているようなので、城の見どころは探せばもっと多くあります。
戦国の歴史が濃い城なので、次に行くことがあればもっと深掘りして周りたいと思います。










