【鹿児島県】鹿児島城

日本100名城復元城門,日本100名城,石垣

CASTLE DATA FILE.108

登城日:2026年3月28日-29日
交通手段:人吉城から車で90分
ステータス:日本100名城・県指定特別史跡
ジャンル:平山城
遺構:石垣・堀・石橋
復元建築:御楼門
スタンプ:鹿児島まち歩きステーションで押印
御城印:鹿児島まち歩きステーションで購入

薩摩は人をもって城となす。薩摩藩士が息づく鹿児島城

九州遠征3日目 2城目は日本100名城の鹿児島城にやってきました。
福岡県 太宰府天満宮→熊本県 人吉城→鹿児島城とハードな1日の締め括りです。

人吉城からは車で1時間30分程で到着しました。

鹿児島城といえば、島津氏の本城であり薩摩藩の藩庁が置かれた城です。
そして、幕末の英雄とされる薩摩藩士 西郷隆盛を生んだ街です。

大河ドラマ「西郷どん」を見ていたワタクシにとっては、是が非でも今回の遠征でコンプリートしたい城の一つでした。

まず目指したのは西郷隆盛像の目の前にある、鹿児島まち歩き観光ステーション。
こちらで御城印と日本100名城スタンプを押してから、鹿児島城について情報を収集しました。

既に時間が16時半だった為、本日は可能な限り周って、明日の朝一に再び訪城する計画です。

駐車場から見た城山。
鹿児島城は近世の平城と、背後に詰城となる城山を有した城郭でした。

この城山こそ国内最後の戦争となる、西南戦争の舞台になりました。

まずは車で城山に向かいます。

城山には幾つか登城ルートがありますが、大手口は照国神社の脇からになります。
山の背後から車で行くこともでき、無料駐車場があります。

駐車場に生える巨木。
城山は鹿児島城として国の史跡に指定されていますが、同時に国指定天然記念物にも指定されています。
600種の亜熱帯植物が自生しています。

城山の登城路。
無料駐車場からは歩いて5分ほどで展望台に到着できます。

城山展望台。整備された綺麗な広場になっています。

城山展望台の標高は107m。
このエリア特有のシラス台地によって、切り立った急な崖になっています。

城山から見た鹿児島市内!
素晴らしい景色。そして、西郷隆盛や薩摩藩士も見た景色です。
それだけで、とても胸が熱くなります。

残念ながら晴れていましたが、霧によって桜島は見ることができませんでした。

西南戦争で西郷軍は新政府軍と戦います。
西郷隆盛は新政府樹立と、新たな日本のカタチを作った立役者です。
明治政府では陸軍最高司令官、陸軍大将でした。

しかし、その自ら樹立した政府と戦うことになります。

西南戦争については、文字数が多くなるので割愛させて頂きますが、西郷軍は東京に向けて進軍するも敗走し、故郷 鹿児島を死に場所に選んだとされています。

旧薩摩藩士と共にこの城山に立て篭もります。
挙兵時は13,000人だった兵士は、進軍する内に不平士族が合流し、最大で30,000人から40,000人に膨れ上がりました。

しかし、この城山に敗走した時には僅か300人余でした。

僅か300人余の西郷軍に対して、新政府軍は40,000人。

1877年9月24日 午前4時

新政府軍による城山総攻撃が開始。
国内最後の戦争は終焉を迎えました。

陸軍には多くの旧薩摩藩士がいました。
そして、西郷軍も旧薩摩藩士が中心となって挙兵しました。
新しい日本を作るために明治維新を成した武士たちは、西南戦争で戦うことに・・

西郷隆盛は何を思って挙兵したのか、日本最後のサムライ達は何を思ってこの景色を見ていたのか、

そんなことを考えながら、この景色を眺めます。

城山展望台の最頂部。

行幸記念碑。

生命力を感じる木。
きっと、西南戦争の時もこの木は変わらずこの場所に佇んでいたのでしょう。

城山の裏手の登城路にあるのが、西郷隆盛洞窟。
大河ドラマ 西郷どんでも出てくるシーン。

西南戦争で追い込まれた西郷軍。
西郷隆盛はこの洞窟で5日間過ごしました。

城山総攻撃が始まり、死を決した西郷隆盛は夜明けを待ってこの洞窟を出ます。
岩崎谷を下り、その時に流弾が腰に命中。

別府の介錯によって49歳の生涯を終えました。

西郷隆盛洞窟 付近から見た城山。

続いて照国神社に戻ります。
だいぶ日が暮れてきました。一般道に巨大な鳥居が建っています。

照国神社は島津家28代当主 島津斉彬公を祭神とした神社です。

島津斉彬は幕末を代表するリーダーで、富国強兵や殖産興業にいち早く着手しました。
世界的な認識を持った有能な人物でした。
何よりも下級武士であった西郷隆盛は、島津斉彬がいなければ歴史の表舞台に立つこともありませんでした。

ちなみに、日本で初めて写真撮影された人物は島津斉彬であるとされており、写真技術自体に興味を持って、城の写真を自ら撮影しています。

照国神社から見た城山。
激戦地だと知ると、聳え立った夕暮れの城山に哀愁を感じます。

照国神社の近くには城山の大手口があります。

藩士も登城したルートだと思いますので、写真だけ撮りに行きました。

照国神社の近くには、島津家25代当主 島津重豪によって造られた探勝園があります。

探勝園には島津忠義公の銅像があります。
島津忠義は薩摩藩 最後の藩主です。島津斉彬の弟 島津久光の息子です。

探勝園の奥には島津久光公の銅像もあります。
背後には城山があります。

暗くなり西郷隆盛像もライトアップされました。

日が暮れましたが鹿児島城の本丸に向かいます。
二の丸の石垣と大通り。

現在の鹿児島城のシンボル 御楼門!
ライトアップされて美しく照らされています。

御楼門は日本最大級の城門として2020年に復元されました。
22時までライトアップされています。

幾つもの光によって姿を変る御楼門。
ライトアップは宿泊の醍醐味です!疲れていてもライトアップは見たくなります。

御楼門脇の本丸石垣も照らされています。
赤は少々不気味でもあります。

本日はこのままホテルに帰り、明日の朝から再び鹿児島城を攻めます。

九州遠征4日目 朝7時の清々しい朝。
黎明館からスタートです。

城山の麓にある黎明館の駐車場あたりは、本丸御殿の大奥あたりに位置しています。

黎明館の駐車場は少し高い場所にあります。

黎明館の駐車場から鹿児島県立図書館に階段を下りると二の丸の石垣を見ることができます。

石垣の中には水を排出するための石樋も確認できます。
二の丸は現在、県立図書館になっています。

他城では水堀があったり、高い場所に石樋があって近くで見ることが無いので、じっくりと近くで観察!

県立図書館を出て、昨日も行った御楼門を目指します。

鹿児島城は72万石の大大名でしたが、本拠となる鹿児島城は非常に質素で、本丸と二の丸を中心とした城郭でした。
当然、天守は建てられず多重の櫓もありませんでした。

戦国時代に九州を席巻し、常に攻めの戦をしてきた島津氏ならではの発想なのか、財政的なものか、幕府への配慮なのか、
防御力が低く、不思議に感じる城です。

薩摩藩はこの鹿児島城を中心に藩独自に構築した外城制度を活用し、周囲の外城との連携を強めて藩全体の防御力を高めていました。

外側の二の丸石垣。
下の水路には鯉が泳いでいます。

石垣に生えた木。

二の丸の入隅石垣。

高石垣が本丸石垣。
本丸の前には水堀となっています。

二の丸と本丸の結合部。
石垣の高さはそこまで高くはありませんが、美しい曲線で隅は算木積み。

隙間なく加工された石を積んだ切込接、そして石の横目地を揃えた布積み。

朝一の御楼門!
改めて明るいところで見ると迫力があります。

御楼門は明治6年に火災で焼失しましたが、2020年に見事に復元されました。
高さは20mで国内最大級となります。

御楼門も素晴らしいのですが、門に架かる橋にも注目です!

当初は板橋だったものを1810年に幕府に願い出て石橋に架け替えられました。

御楼門脇から少し離れた場所に二つの鏡石があります。
なぜ門の脇ではなく、中途半端な場所にあるのか。
元は御楼門の近くにあったものが修復の際に今の場所に移したと考えられています。

石橋から見た左側。
当時は石垣の上には土塀があり、この際に一重の櫓が立っていました。

石橋から見た右側の石垣と水堀。
こちらには一重二階の長屋のような櫓が建っていました。

しかし、近世城郭にしては堀幅も狭く城というよりは館に近い造りのようにも思えます。

城内の解説板には古写真が掲載されています。

御楼門を支える柱。
1.2m×1.0mの大きな礎石が残っており、柱のサイズは90cm×70cmと、部材も巨大な城門を支えるに相応しい大きさです。

梁の表面を削った釿(ちょうな)も確認できます。
日本の伝統的な技法が随所に見ることができます。

御楼門を抜けた枡形には生々しい痕跡が残ります。
これは西南戦争で新政府軍に受けた銃弾と砲弾の跡です。
石垣の表面も剥がれ、激戦の痕跡が今でも残っています。

ある意味では当時の最新兵器でも壊れない防御力を持つ石垣とは、権威の象徴だけではなく、ちゃんと実用的な防御機能だったと実感できました。

石垣にめり込んだ実弾。

御楼門の枡形。
大きな城門に対して枡形部が小さく、やはり他の城に比べて防御力にやや欠ける設計になっています。

石垣の隅部は一定の幅で削って丸くなっています。江戸切と呼ばれる美を意識した技法で、石を積んだ後に施工されているようです。

上から見た枡形部。

朝日と御楼門。
寺院建築並みの立派な楼門です。

現在、本丸跡には1983年に開館した黎明館が建てられています。
展示品などがあり鹿児島県における歴史などを学ぶことができます。

朝早すぎた為、今回は入館することはできませんでした。

本丸跡には篤姫の銅像があります。
篤姫は島津家の分家に生まれ、島津斉彬の養女になります。
そして、江戸幕府13代将軍 徳川家定の正室となります。外様大名の島津家から輿入れすることは極めて異例でした。

ちなみに、11代将軍徳川家斉の正室 茂姫も島津家です。

本丸跡から見た城山。

本丸北東隅の石垣。
石垣の角が欠けている隅欠(すみおとし)。これは鹿児島城の鬼門の方向にあたる北東石垣の角を落とすことで、災いが入ってこないように鬼門封じで設けられたと考えられています。

鬼門除けは城によって様々なので、是非注目して頂きたいです。

北御門跡。
土橋に石垣が積まれ、水路も確認できます。

北御門跡から見た本丸北側の石垣と水堀。

桜と朝日、そして美しい石垣。
朝早くに行く城は、人も少なく静かで空気も澄んで気持ち良いので、宿泊の時は必ず朝早くから城巡りするのがルーティーンです。

北御門跡から見るこのアングルで注目するのは道路側の石垣。
綺麗に積まれているので、一見すると最近になって積まれた石のように見えますが、こちらも江戸時代に積まれた石垣になります。

中間の色が変わっている箇所は、大雨で崩落したことで令和2年に修復された箇所。左側が落とし積みで、修復石垣を挟んで右側が横地を揃えた布積みです。

橋の反対側も布積みとなっています。

北御門跡から城山方面に行くと薩摩義士碑があります。
1753年、徳川幕府より課せられた尾張藩内での宝暦治水で命をかけ犠牲となった薩摩藩士を弔う史跡です。 

木曽川・揖斐川・長良川(岐阜県)の改修工事に約1,000人を動員し工費40万両を費やし、1年3ヶ月かけて完成しました。
その間、幕吏や地域住民との対立、 悪疫の流行などで88名の犠牲者をだしました。

続いて、薩摩義士碑から5分ほどの場所にある石碑に到着です。
この場所こそ西郷隆盛 終焉の地。
昨日見た西郷隆盛洞窟から僅か300m、650歩。

「普どん、もうここらでよか」
東を向き、皇居を伏し拝む西郷隆盛に介錯の刀が振り下ろされました。

明治維新は西郷なくして成し得なかった。
稀代の薩摩藩士はここで最後を迎え、同時に7ヶ月に及ぶ西南戦争が終わりました。

西郷隆盛終焉の地の前にある踏切。
この踏切あたりは当時、岩崎口門がありました。

岩崎口門跡から見た城山方面。

踏切を渡ってすぐの場所に私学校の石垣が出現します。

明治7年に西郷隆盛は政府を辞職した後、鹿児島に戻り農業をしていたそうです。
そして、共に政府を辞職した青年士族たちの教育と軍事訓練を主な目的とした私学校を創設します。

藩に雇われていた武士たちは、廃藩置県によって新たな道を探ることになります。
ちなみに、旧薩摩藩の総人口の1/4は武士でした。

西郷隆盛が中心となり、政府に不満を持つ元士族たちの暴発を抑え、指導・統率する目的もありました。

私学校は鹿児島城の厩跡に造られました。
目の前に通る国道拡張時に、門と壁は原型のまま13m移動されたようです。

私学校に残る銃痕の跡。
私学校にまで激しい戦争の痕跡が残ります。

鹿児島城は館のような城だったので、遺構としてはやや物足りなさがありますが、歴史と共に歩くと十分に楽しめる城です。

個人的なオススメは、やはり大河ドラマ 西郷どんを見てから行くのが最強です。
大河ドラマで唯一泣いたのは、西郷どんのラストシーンです。
主演の鈴木亮平さんが凄い良かったんですよね。

天気にも恵まれ素晴らしい1日の始まりです。
2城目は志布志城に向かいます。