【長野県】小諸城(再訪)

CASTLE DATA FILE.30
登城日:2026年2月5日
交通手段:しなの鉄道線「小諸駅」徒歩3分
ステータス:日本100名城・国指定史跡
ジャンル:平山城
遺構:城門・天守台・石垣・空堀
国の重要文化財:大手門・三之門
スタンプ:2024年1月 押印済み
御城印:2024年1月 購入済み
前回訪問:2024年1月2日
戦国期城郭と近世城郭の顔を併せ持つ城
今回は2024年1月以来、2年ぶりに長野県の小諸城に再訪城しました。
小諸城は日本100名城で、桜の名所でもあります。前回も存分に楽しんだのですが、より深く小諸城を巡りたいと思っていたので、このタイミングで決行しました。
バスタ新宿から軽井沢駅まで高速バスで2900円。軽井沢駅から、しなの鉄道線で約25分。電車との接続が悪く、1時間ほど軽井沢駅で待ちました。

見たことのない景色を見ながら行く、ローカル線の旅はとても楽しいものです。
小諸城は武田信玄の命を受けた重臣が縄張りをし、城郭を整備したと伝わっています。
武田氏が滅びると、小諸城は織田信長の将・滝川一益の持城となりましたが、信長が倒れると北条氏が滝川勢を倒して小諸へ侵攻。
以降は徳川、北条、上杉に真田も加わり争奪戦が展開、やがて豊臣秀吉の仲裁もあり徳川氏の所領となりました。
豊臣政権下では千石秀久が小諸五万石の大名として小諸城主となります。現在の小諸城は千石氏時代のものとされています。
有名な武将が取り合った城ということからも、どの時代においても重要視された城といえます。
小諸駅に着いて二の丸方面から周っていきます。小諸城は主に本丸、二の丸、三の丸からなる連郭式の城郭ですが、二の丸と三の丸の間には線路が貫通していて分断されています。

二の丸方面に向かうには三の門を通過します。
現在、城址は懐古園として整備されています。
三の門は1615年に創建、しかし1742年に水害によって流失してしまいました。
1765年に再建され、現在に至ります。

城郭内部からのショット。
江戸時代からの現存城門として、国の重要文化財に指定されています。

後ほど周る城内の石垣に比べて、三の門の石垣は加工された打込接となります。
間柱や長押が外部に出ている真壁造り。

門の上部に「懐古園」と掲げられた額の文字は、徳川家16代の徳川家達公の筆によるものです。

三の門を抜けると懐古園のチケット売り場があり、料金を支払って城内に入ります。
まずは二の丸の石垣が現れます。かなり大きい石が使われており、迫力あります。

振り返ると三の門と二の丸石垣が綺麗に見えます。
ちなみに、明治の廃城令によって小諸城も解体され、二の丸の石垣も解体されましたが昭和に今の姿に復元されました。

二の丸の石垣沿いに進むと二の門跡に出ます。
二の門は喰違いの枡形になっています。

現在は石垣しか残っていませんが、礎石も確認できます。

振り返っての一枚。
当時は三の門のような櫓門形式の城門でした。ネットで探すと小諸城のCG映像が公開されているので、イメージがつきやすいのでオススメ。

二の門跡の抜けるとすぐに、二の丸に上がる階段があります。

二の丸は割と小さめな曲輪ではありますが、先端が突き出しており、三の丸方面から攻めてくる敵を一望することができます。
真田軍と徳川軍は2度にわたって上田城で戦いますが、第二次上田合戦の際に二代将軍 徳川秀忠がこの二の丸に本陣を置きました。

二の丸から見た二の門跡。反対側の石垣は南の丸。
二の丸と南の丸の橋のように架かっており、互いの曲輪を行き来する役目もありました。

二の丸の向かいにある南の丸に向かいます。
階段の脇には一際大きな石材の鏡石を確認できます。

南の丸も二の丸同様に防衛の為の曲輪なのかなと思われます。

南の丸から見た二の門跡。
対面の曲輪は二の丸。この曲輪を繋ぐように櫓門形式の二の門がありました。

南の丸は通り過ぎてしまいそうな小規模な曲輪ですが、南の丸からは巨大な谷を見ることができます。

この崖が本丸を防備しています。

下から見ると、こんなに垂直に切り立った崖になっています。
間違いなく、ここから攻めることは不可能です。

続いて本丸に向かうと中仕切門跡があります。
石垣も一部しか残っていませんが、この直線に道を仕切る門がありました。
左側は南の丸の石垣。中仕切門の先の右側には北の丸跡があり、現在は弓道場となっています。
ここから近世城郭と戦国期城郭がMIXしたゾーン

黒門橋を渡ると、いよいよ本丸となります。
しかし、敵視点で見るとここから先が難関です。
当時の小諸城はこの黒門橋が、本丸への唯一の入口でした。本丸は完全に分断されて隔離された曲輪となっています。

黒門橋から見た堀切。人工的に掘削して深い堀切を設けて、本丸は分断して防御力を高めています。

黒門橋から見た反対側。
深く掘り込まれた堀切&空堀は、北側の谷へと繋がり主郭部との接続を完全に遮断しています。

橋を渡ると黒門跡の石垣が残っています。
敵が攻めてきた際は橋を落として、敵が侵入できないような設計だったと思われます。
それでも攻めてきた敵をこの黒門が最後の防御として本丸を守っていました。

逆光で黒い右側の高い石垣は本丸石垣。
奥の石垣は黒門の石垣になります。

現在、本丸には懐古神社が鎮座。

本丸内にある庭園の池には噴水?が凍結して神秘的な氷に変貌を遂げていました。
長野県は雪が多いイメージですが、寒さはあっても小諸市には全く雪はありませんでした。

懐古神社の社務所側に階段があり、ここから天守台に向かいます。

本丸石垣の上は綺麗に整備されているので、上部を歩いて天守台まで行くことができます。

本丸北西の隅に天守台があり、西側が張り出しています。

レアな角度からの石垣。
自然石を積み上げた野面積み。1600年前後に仙石秀久によってこの石垣は積まれたとされています。

本丸石垣よりも天守台はやや高く、階段を登り天守台跡に登頂。

現在は石柱が残るのみとなりますが、この天守台には仙石秀久によって創建されたと考えられている、三重の天守が建っていました。
一部の大名にのみ許された金箔瓦が使用されていたそうです。

天守台の北側。下には藤村記念館があります。
北側の石垣 中腹部が少しはらんでいるように見えたので、崩落しないか心配。

天守台から見た本丸北側の石垣。

本丸から見た景色。
雄大な山々に囲まれており一望できます。

同じく天守台から見た景色。
木があり限定的ですが、北アルプスの山々を見ることができます。

天守台から見た本丸西側の石垣。
このショットはお気に入り。ただ、手すりなどの安全設備はないので注意が必要です!

本丸石垣の上から見た馬場。
城郭西側で本丸の下に位置しています。現在は多くの桜が植えられているので、春はまた違った景色を望めます。

本丸南側より馬場方面に出て、本丸西側の石垣を今度は下から見ていきます。

美しい野面積み。隅はまだ発展途上ですが算木積みになっています。

続いて天守台。
天守は1626年に落雷によって焼失してしまい、以降は再建されることなく明治を迎えました。

本丸近辺は石垣が多用されている為、近世城郭らしさを感じます。当時の最新技術で築城されたのかなと思われます。

天守台と本丸西側の石垣。
このアングルも個人的には好きで、2年前も全く同じアングルで写真を撮っていました。
良くも悪くも変わらない感性。

天守台の隅石。絶妙なバランスで400年以上、この姿を保っています。卓越した石垣技術!

天守台の前にひっそりと建っている建築物。
これは武器庫で、廃藩後に東京に移築され、現在の地に当時の姿に近い形で復元されました。

城郭西側は大きな空堀のような切込みを確認できます。
これを見たら行ってみたくなります。千曲川まで降りるハイキングコースとして整備されています。

尾根の脇が整備されています。この道を進むと千曲川に出ることができます。

山の尾根は細く、城郭側となる右側は崖になっています。

南側と西側は切り立った谷になっており、合流します。小諸城はとんでもない場所に築城されているのが分かります。
この壮大なロケーションを目の前で見ることができます。

尾根を分断した堀切も確認できました。
尾根が細いのでここまで分かりやすい堀切も珍しいです。

下から堀切の全体を撮影。
山のてっぺんを切って分断することで敵の侵攻を食い止める役割があります。
本丸は近世城郭の風貌をしていますが、城郭を取り巻く全体的な立地は完全に戦国期の山城です。

城郭の北西の隅には水の手門跡があり、現在は通路が造られ展望台があります。

水の手門の石垣。当時は石垣をくり抜いた埋門のような形をした門が、現在の通路の場所にありました。

展望台からの景色。
小諸城は深い谷とこの千曲川によって守られています。

最高の景色。城郭の隅にあるのでスルーされがちですが、この展望台は絶対に寄って頂きたいです。

展望台からの城郭西側。
崖は崩落を防ぐためにコンクリートで補強されていますが、崖になっているのが確認できます。

水の手門跡の展望台に行った後は酔月橋へと移動。
城郭北側の谷に架かった橋なので、酔月橋からの景色は谷のど真ん中から見れるので圧巻です。

城郭北側の谷となる地獄谷。
左の崖の上に見えるのは、先ほど見た水の手門跡にある展望台。
小諸城は北側・南側・西側の三方向をこのような崖と谷の天然の要害によって守られていました。
それにしても一体どのようにしたら、大地を切り裂いたような谷が出来るのでしょうか。

ひと通り懐古園内の城郭遺構は見て周りましたので、三の丸跡にある大手門に向かいます。
先述した通り、現在の小諸城は道路と線路で分断されていますので、自由通路を潜り抜けて移動することができます。

江戸時代から残る現存の城門 大手門。
創建は仙石秀久時代の1612年と伝わります。大工は江戸から招き、当時としては珍しい瓦葺の門だった為に瓦門と呼ばれていました。

大手門と脇の石垣。
桁を左右の石垣の上に乗せずに、その間に独立して建設しており、日本の城門発展の過程を知る重要な建物である。
櫓門よりも脇の石垣のほうが高いのが特徴です。

脇の石垣は高さもあり、勾配が美しく立派です。
隅の算木積みを見ると、天守台よりも発展した積み方をしているように思えます。

内部には今回も入ることができませんでしたが、二階の内部は居室風の畳敷になっている大変珍しい造りをしています。

控え柱も太い材料で構築されており、両脇には番所のように人が駐屯できるような部屋のようになっています。

脇の石垣と城門の隙間は、塞ぎ板で間仕切られています。

大手門から旧北国街道の城下町を歩きます。
大手門から城下町に向かって上り坂になっています。
何気ない坂道ですが、城下町よりも城郭が低い位置にあるこの構造こそ「穴城」と呼ばれる所以です。
本来は軍事的な防御の観点から見ても、街のシンボルや権威という観点から見ても、エリアで一番高い場所にあるのが城なので珍しいです。
ちなみに、全国で穴城は小諸城しかありません。情緒あふれる街並みも、とても素敵です。

旧北国街道の突き当りには光岳寺があり、こちらには小諸城の城門が移築されています。
足柄門は二の丸と三の丸の間あたりに建っていた門になります。

奥に見える山門とのコラボショットは絵になります。

内側からのショット。
高麗門形式の門ですが、珍しいのは高麗門の特徴でもある、張り出した切妻の屋根が表にも裏にもあること。
高麗門でもこの形式は初めて見ました。
今回は二度目の小諸城でしたが、前回気付くことができなかった遺構も見ることができました。さらに、複数訪城だからこそ気付ける城の全体像を知ることもできました。
中学生の時に良いなと思っていた歌を大人になって聞いたら、この歌詞って本当はこうゆう意味なのかな?当時と違う感性によって違う歌に感じるように、お城は同じ城に何回行っても新しい発見や見え方が変わります。
だから城めぐりはやめられないし、何回 同じ城に行っても楽します。
再び電車に乗って今度は上田城に移動します。










