滝山城【続日本100名城】
滝山城は北条氏康の三男・北条氏照の居城として知られており、多摩川や秋川を堀に利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇っていた。木曽義仲の末裔である大石定重が1521年(永正18年)に築いたといわれますが、築城年については諸説がある。
1569年(永禄12年)には小田原攻撃に向かう武田信玄の軍勢に攻められ、落城寸前にまで追い込まれたため、八王子城を築城し移転しました。現在も遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っており、国の史跡に指定されている。また、城址の大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり、春には桜の名所となっている。
Contents
滝山城の見どころ
■幾つもの巨大な空堀が魅力!本丸を仕切る堀切は滝山城を代表するスポットです
■二の丸を囲む深い空堀と複雑に設計された馬出は、戦うための城郭を存分に味わうことができます
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■続日本100名城スタンプ設置場所
・滝山城跡中の丸広場
・八王子市加住市民センター
・道の駅八王子滝山
■御城印
・桑都日本遺産センター 八王子博物館
滝山城 周辺の天気
| 別名 | 武州瀧山城、瀧山城、横山城、竹山城、多喜山城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 連郭式丘城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 大石定重 |
| 築城年 | 大永元年(1521年)諸説あり |
| 主な改修者 | 北条氏照 |
| 主な城主 | 大石定重、大石定久、北条氏照 |
| 廃城年 | 不明 |
| 遺構 | 土塁、横堀、竪堀、畝堀、障子堀、井戸、土橋、枡形虎口、曲輪、堀切 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
写真で見る滝山城
レポート
概要
多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要塞で、関東随一の規模を誇ったという。
現在、遺構として本丸・中の丸・空堀・竪堀・虎口・曲輪・土橋・土塁・竪堀、曲輪などが残っており、国の史跡に指定され1951年(昭和26年)6月9日指定)。大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり桜の名所であるが未だに私有地もあるので公園化されない部分が多いのも現状である。
遺構の保存状態がよく、かつそれがわかりやすいため、中世城郭の最高傑作とも言われている。
築城時期・氏照入城時期
1521年山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重、定久が築城し、高月城から移ったといわれているが、実際は分かってない。1546年、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年頃、北条氏照は城の大改修を実施した。
その一方で、1561年(永禄4年)春に上杉輝虎が小田原城を攻めた際に滝山城下を経由した形跡があるのに合戦が起きていないこと、同年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際に滝山城よりも遠い由井城(浄福寺城とみられる)に本営を置いていることなど、滝山城が存在していれば起こり得ない事例を挙げて、同年当時滝山城はまだ存在していないという説もある。
この説によれば、小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を示した朱印状が出された1563年(永禄6年)4月より北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた発給文書が出された1567年(永禄10年)9月までの4年余りの時期に上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとする。また、他にも滝山城への移転理由を北条氏が三田氏を滅ぼしてその旧領(勝沼領)を氏照に与えられたことをきっかけとともいわれる。
滝山合戦
天文2年の滝山合戦
天文2年(1533年)、北条氏綱、鶴岡八幡宮造営。定久等費拠出を拒み、滝山城の口実を与えたか。 天文5年(1536年)北条氏康、武田の加勢を得て滝山城攻撃。
なお、前述のように永禄年間築城説を採るとまだ存在しない滝山城を攻めることはできないため、大石氏の別の城攻めなのか、後世の創作かと言う問題が発生する。
また、天文4年(1535年)に北条氏が甲斐に侵攻して武田氏と戦っており、両氏が和睦をするのは北条氏康と武田信玄に代替わりをした後であるという別の問題も存在する。
天文21年の滝山合戦
天文21年(1552年)、長尾景虎方と後北条氏方が滝山城方面にて交戦。ただし、この年の長尾軍の南下(謙信の初めての関東出兵でもある)は、上野国内に止まっており、西武蔵方面で実際に戦闘があったのか不明。
永禄12年の滝山合戦
永禄12年(1569年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍約2万人が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が未整備の間道(甲州街道の前身)を通り小仏峠から進入、これに対し北条氏方は廿里で迎撃したが一蹴された(廿里古戦場)。後北条氏方は予測外の方向より攻められた為、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。
しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったともいわれているが、真相は謎である。
なお、滝山城の三の丸や中の丸まで、落城寸前まで攻められたとは、江戸期に書かれた甲斐の武田氏の軍記物語【甲陽軍鑑】や【武田記】が書かれたよるものである。
しかし、氏照本人が永禄12年10月24日に、越後の上杉輝虎の家臣山吉豊守および河田重親に宛てた書状によれば、滝山城の城下町である宿三口で戦いが行われたと書かれているが、実際は不明である。(上杉家文書より)
または、1577年(天正5年)2月5日、武田の家臣で都留郡上野原(山梨県上野原市)の領主である加藤信景が都留郡諏訪神社の奉納された棟札の記載によれば、加藤信景の父丹後守景忠は武田信玄に従い、北条氏攻撃のため、氏照の居城滝山城下に放火し裸城とし、10月27日に本郷(八王子市本郷町または元本郷町)に陣取ったと記載がある。
小田原征伐(決戦)
1590年(天正18)豊臣秀吉方が北条攻めに際し作成した城と軍勢に関する覚書の中に、北条氏照の管轄する六か所の城の名と四五〇〇騎という軍勢数が記載される。その中に竹山の城は滝山城を指しているとも言われている。
構造
滝山城は、伝二の丸の集中防衛を意識して作られており、二の丸の周囲には馬出状の曲輪のようなものがあり、滝山城には伝二の丸の周囲だけで、千畳敷の角馬出、南馬出、大馬出、東馬出の防御性の高い遺構群が残っている。
馬出に入る際、またはたとえ馬出曲輪を突破しても、土橋や枡形状の虎口により、迷路のように敵方を小分けにして殲滅できるように非常に防御性が高い構造になっている。
鍛冶谷戸と言われる谷戸から侵入すると、最終的には伝二の丸の櫓台から180度の方向から狙われることになる。
天気と空気が澄んでいれば、富士山が見えるスポットである。
この構造が同じ北条氏の城で静岡県三島市にある山中城、氏照の最期の城である八王子城にも影響を与えたとも言われている。
大手
滝山城の大手口と言われているのは天野坂から登城路、少林寺がある鍛冶谷戸からの登城ロ、地元幼稚園すみれ幼稚園からの専国坊谷戸などが言われており、実際、どのルートが正規ルートは分かっていない。
発掘調査
滝山城で発掘調査を行われた場所は、伝千畳敷・伝中の丸、伝本丸の曳橋の大堀切と伝本丸の枡形状の虎口だけである。中でも伝本丸の枡形状の虎口の発掘調査によると、加工されてない多摩川から採石された河原石を使った石畳や暗渠や三方を土塁で築かれていることが見つかった。
さらに一箇所だけ、城割りの際に虎口を壊している跡が見つかったが、これが八王子城へ移った際に行われたのか、現時点は不明である。
曳橋は橋を引く装置などが見つかっていないことから、非常時の時は伝本丸側または伝中の丸側に曳き込んだり、燃やしたり橋桁を落としたとか、橋板を落としたというとさまざま説もあるが、未だに滝山城も未発掘箇所が多く全容の解明に至っていない。
MEMO
御城印は八王子駅前にある桑都日本遺産センターでのみ販売しています。スタンプなど城郭に行った証を提出することで購入可能なので注意です!
マップ
アクセス
■JR・八高線/青梅線/西武拝島線・拝島駅
■京王・八王子駅またはJR・八王子駅北口から戸吹行き・杏林大学行きバスで「滝山城址下」下車、徒歩約15分
■中央道・八王子ICから国道16号を拝島方面へ、左入交差点を左折し国道411号(滝山街道)へ約15分
滝山城 周辺スポット
高尾山薬王院

天狗の神様を祀り開運・魔除のご利益で知られる。現在は真言宗智山派の大本山として、都内はもとより遠方からも参拝者が訪れる名刹だ。
金剛の滝

市の北西部、今熊山のふもとにある滝です。急勾配の山道をとおり河原を遡ると奥地に滝が見えます。手前に、約4メートルの雌滝があり、その脇の岩のトンネルをくぐると約18メートルの雄滝があります。雄滝の中に不動明王の像がまつられています。
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