淀城

淀城は京都府京都市伏見区淀本町にあった日本の城。

現在は本丸の石垣と堀の一部が残っている。江戸時代には久松松平家、戸田氏、稲葉氏など譜代大名が居城した。

木津川、桂川、宇治川の三河川が合流して淀川となる。

その要衝に江戸幕府が築いた城で、徳川の伏見城(木幡山伏見城)の代わりとして造られた。

伏見城が廃城となり、淀城に天守を移築する計画であったが急遽、伏見城は二条城に移され二条城の天守が淀城に移築された。その後、宝暦6年(1756)、落雷で消失。

見どころ

■五重の変形連立天守が建っていた天守台

淀城周辺の天気

別名てん城、新淀城
城郭構造梯郭式平城
天守構造連立式望楼型5重5階地下1階(1623年築)
(非現存)
築城主松平定綱
築城年元和9年(1623年)
主な改修者永井尚政
主な城主久松松平氏、石川氏、稲葉氏他
廃城年明治4年(1871年)
遺構石垣、堀、天守台、本丸跡、二の丸跡等
指定文化財未指定
再建造物城郭はなし(淀城跡公園)

訪城レポート

概要

淀は「与渡津」と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地であった。また、河内国・摂津国方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝であった。

淀城は、宇治川(旧河道)と木津川(旧河道)の合流点に形成された島之内、現在の京都市伏見区の京阪電気鉄道淀駅の南西に位置する。

安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城(旧淀城)は桂川と宇治川(旧河道)の合流点に挟まれた納所、現在の位置より北へ約500メートルの位置にあった。

こちらは、鶴松死後に拾丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村重茲の連座とともに廃城とされた。

江戸時代に、木幡山にあった徳川氏の伏見城の廃城により、その代わりとして江戸幕府が松平定綱に命じて新たに築かせた。以降は、山城国唯一の大名家の居城として明治に至った。

沿革

『徳川実紀』によると元和9年(1623年)8月、2代将軍徳川秀忠からの命で松平定綱が淀藩へ所領3万5千石で入部を命じられた。その後『淀下津町記録』によると河村右衛門の屋敷跡に江戸幕府の援助によって築城された。

松平定綱は淀城の最初の城主となる。また『淀古今真佐子』によると、廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築し築かれたと伝えられている。

城郭は寛永2年(1625年)にほぼ完成した。翌、寛永3年(1626年)6月には大御所徳川秀忠が、また同年8月には征夷大将軍徳川家光が淀城の縄張りを調べに来城したようである。

寛永10年(1633年)に松平定綱は美濃国へ移封され、永井尚政が10万石で入部し城下町の拡張と侍屋敷の造営が行われた。

城下は当初池上町と下津町の2町だったが、寛永14年(1637年)から寛永16年(1639年)にかけて、淀城へ向けて北流していた木津川の末端部を西流させる付け替え工事が行われ、新町が加わった。

その後、寛文9年(1669年)には石川憲之、正徳元年(1711年)には戸田光熈、享保2年(1717年)には松平乗邑が6万石で入部した。その松平乗邑も下総国に転じた後は享保8年(1723年)に稲葉正知が10万石で城主となったのち、幕末まで稲葉氏が城主を務めた。

宝暦6年(1756年)の落雷により天守や建物の大半が焼失し、徳川幕府は再建に1万両を淀藩に貸し付けたようだが、天守や本丸御殿は再建されなかった。

幕末、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとするが、淀藩に拒絶された。淀城は、伏見城廃城後の京都南方の守護の拠点として期待され、大坂城などとともに西国に睨みを利かすために築城されたが、皮肉にも官軍の勝利に一役買うことになった。

この時の兵火で淀城の城下町と城内の一部が焼亡してしまった。

淀藩の廃藩に伴い、早くから淀城は廃城となる。淀城東部にあった巨椋池の干拓によって地形が大きくかわり、本丸の一部を除いてすべて破壊された。さらに、本丸南東部を京阪電気鉄道(京阪本線)が貫通するに及び、淀城の消滅は必至となるが、このころになってようやく保存運動が高まり、今日は本丸周辺の整備が進み、開発の手を免れた石垣及び堀が保存されている。

2022年2月28日、京都競馬場の淀寮内にて城跡が発見された。 軟弱地盤に対応するための蝋燭基礎という形でかさ上げする工事された跡や鳥羽伏見の戦いで火災にあった跡が確認された。

アクセス

■京阪電気鉄道京阪本線 淀駅 徒歩約4分

マップ

淀城 周辺スポット

長円寺

戊辰戦争の皮切りとなった鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府軍・会津藩・新選組は、閻魔様を安置している長円寺は新政府軍も攻撃しないと考え、長円寺は野戦病院となった。

新選組のファンが今でも訪れる。